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2018/10/11

マクナマラの教訓⑲: ジョンソン大統領をどう見るか(後編)

<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑲補足説明: ジョンソン大統領をどう見るか(後編)>
 
(つづき)
 前編では主としてマクナマラ氏の視点から、ジョンソン大統領のベトナム戦争を中心に考察しました。食えない親父でしたね。しかし、ベトナム政策のみでジョンソン大統領を評価するのも片手落ちなので、後編では内政面では大きな成果を上げている点を踏まえ、内政で高い評価を得た反面、外交・安保が命取りとなる程の低評価となったジョンソン大統領について、予算編成等で高名な政治学者ウィルダフスキー氏の「The Two Presidencies」という論文が丁度うまく当てはまるので、考察してみたいと思います。また、参考まで、ハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」及び「ジョンソン回顧録」にも言及して、極めて複雑なジョンソン氏のベトナム政策の片鱗をつかむべく考察を試みます。
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ケネディ大統領暗殺から間もなくワシントンに向かう機内で大統領就任宣誓(ジョンソン氏の右はケネディ大統領夫人ジャッキー

<ジョンソン大統領の内政における評価> 
 我々日本人が米国大統領のニュースを耳目にする場合、その多くは外交・安全保障や貿易などの国際経済正面だと思います。中々、米国内の内政政策にはニュースも含め関心が向かないものです。しかし、ジョンソン大統領の内政正面での成果は、あぁ聞いたことがある、と思い当たる節があるほど、世界史等の教科書に載っているほどの素晴らしいものがあります。
 ジョンソン氏は、「Great Society(偉大な社会)」の実現を旗頭に、黒人差別の本格的撤廃を意味する公民権法を成立させ、「War on Poverty(貧困との闘い)」を提唱して貧困層(結局は黒人が対象でしたが・・・)へ公的援助の手を差し伸べたほか、社会福祉、社会保障、医療、教育などこの種の法案を次々に成立させ、歴代大統領の中でもかなり斬新な改革を達成しています。とりわけ、リンカーン時代に奴隷解放までいったものの、その後100年黒人差別政策は文化としても法制度としても米国に根付いていたこの問題に、本格的にメスを入れ、達成したのは評価すべきでしょう。歴代大統領で公民権ネタは必ず潰され、政権の命取りにもなる根強い反発を受けるものであっただけに、ジョンソン大統領の粘り腰と議会掌握能力は称賛に値するものでしょう。因みに、「偉大な社会」は失敗に終わったのだ、とする見方があります。厳密にはその通り。しかし、やがてべトナム戦争に足を取られて行きますので、また、「偉大な社会」にも莫大な予算がかかりますので経費の面でもベトナム戦争にズッポリと足を取られて、偉大な社会は尻すぼみ、というのが実態でしょう。

<公開中の映画「LBJケネディの意志を継いだ男」を見てきました>
 丁度現在、「LBJ ケネディの意志を継いだ男」(平成30年10/6~月末?)という映画が公開されています。今日見てきました。(ちなみに新宿シネマカリテは水曜日は1000円で見れます。)いやぁージョンソン氏を知る良い勉強になりました。映画のシーンからネタバレ過ぎない程度にお話します。
 ジョンソン氏は、テキサス州の地方議員時代からの叩き上げの議会調整能力を有し、上院の院内総務という上院議員の取りまとめ役でもあった大物でした。ケネディ氏と民主党の大統領候補を争って敗退したものの、ケネディ大統領候補から副大統領候補に請われて副大統領になりました。周囲が大統領選のパートナーとしてバタ臭いジョンソン氏を選ぶことに反対する中、ケネディ氏は上院議員として院内総務ジョンソン氏の実力を知っており、敵に回すと一番面倒臭い男なのでいっそ取り込んでしまうことを選びました。(因みに、一応民主党内の大統領選候補として善戦していたので、断られるのを前提に建前上声をかけたところ、ジョンソン氏が予想に反して受諾したため実は引くに引けなくなった、という説もあります。)一方、ジョンソン氏は、党内の大統領候補選で対抗馬として戦った訳ですが、ケネディ氏の東部エスタブリッシュメンツそのものの良家のお坊ちゃん的なところが大嫌いだったようです。自分とケネディ氏を馬にたとえ、「自分は馬車馬でケネディ氏は馬術競技用の馬、本当に働くのはどっちだ?」と。反面、田舎出身叩き上げの自分にはないハンサムさ、若々しさ、清新溌剌さを持って米国の理想や夢を高らかに語れる姿を、そして何より圧倒的な人気、皆から愛されるケネディ氏を眩しいほどに羨ましく思い、悔しいが適わないと認めていたようです。ジョンソン氏陣営では「受けるべきではない!上院議員を辞めて副大統領なってもお飾りであって意味がない」と引き留めます。しかし、ジョンソン氏自身も苦悩の末、ケネディ氏がいかにも議会運営に弱そうであったので、ケネディ氏も自分を必要しており自分ならではの役割があるはずと信じて、副大統領になりました。
 ケネディ政権に入ってみたものの、ケネディ氏が直接集めてきた閣僚、補佐官らスタッフは、みなハーバード大等出身の所謂「ベスト&ブライテスト」(ハルバースタム著)と呼ばれた超優秀な若き英才達で、議会運営のため議員の票集めなどの寝技が得意のジョンソン氏とは全く違うタイプでした。蚊帳の外に置かれる日々、ジョンソン氏は自分の与えられた正面で実力を発揮していきます。そして、不可避的にケネディ大統領の肝いりの課題、公民権問題に突き当たります。ケネディ大統領は公民権法案を議会に持ち出したいところでしたが、ジョンソン副大統領としては南部の反対派との仲介役として立ち回ったため、遂に政権が持ち出す際には副大統領には相談されずに発表されました。ところが、ケネディ大統領暗殺。憲法の規定に基づき、大統領継承順位ナンバー1の副大統領として、急遽ワシントンへ帰る飛行機の機内で就任宣誓をしました。さて、公民権法案問題に結論を出さねばなりません。基本的には黒人差別がまだ色濃く残る南部出身のジョンソン氏にあっては選挙地盤からして、自身の命取りにもなる法案だったにも関わらず、苦悩の末にケネディ前大統領の目指した公民権法案を継承する、いな、実現する松明を引き継ぎました。この辺りの経緯が映画に良く描かれておりました。大統領就任直後に、前大統領の集めた「ベスト&ブライテスト」と呼ばれた超エリート秀才閣僚・補佐官たちが、ジョンソン大統領についていくかどうか、特に公民権法案への取り組みを踏み絵にして値踏みをしていたのが印象的です。しかし、ジョンソン氏は苦悩の末、南部の大先輩議員たちを敢えて裏切ってまで、「公民権法案を成立させる!」「Let us continue!」と明確に演説したシーンには感動しました。ジョンソン大統領自身も、家族同様に親しくしている黒人料理人が宿泊や車の駐車やトイレすら、差別に会って大変危険な思いをしていることを踏まえ、実は公民権には義憤に駆られていたのでした。日本で言えば、昭和の自民党のバタ臭い大物議員的なイメージの人で、義理人情、地盤・看板・鞄(後援組織の充実度、知名度、選挙資金)的な剛腕とコネとネゴ(調整・交渉能力)の力を持って議会運営を進められる、真に力のある大統領だったといえるでしょう。(・・・内政はね。)
(スミマセン十分ネタバレですね。しかし一見価値のある映画です。ぜひご鑑賞を。)

<ウィルダフスキー氏の「Two presidencies」理論を参考に考察>
 内政に強く高く評価されたものの、外交・安保に不得手で低く評価されたジョンソン大統領について考察するにあたり、「予算編成の政治学」という著作でも高名なアーロン・ウィルダフスキー氏が「Two Presidencies Theory(米大統領政権の2つの類型(下手な訳ですみません)論」という大変興味深い理論を提起しています。実は、ウィルダフスキー氏がこの理論を書いた1964年頃には、まだジョンソン大統領はまだ内政イケイケでベトナム問題もまだ本格介入していない状況だったのですが、1930年代後半からケネディ氏までの歴代大統領を引き合いに出して、概略以下のような理論を提起しました。

  米国の大統領には、内政に関心を持って取り組む政権というバージョンと、外交・軍事に関心を持って取り組む政権と言うバージョンの2つの類型がある。ただし、昨今の歴代大統領を眺めてみるに、外交正面により力を入れる傾向である。これは、内政が議会で議論する手順を踏まねばならず、かつ関心を持つ団体からの圧力もあり、しかも政策を打つにも時間がかかることに比較すると、外交・軍事においては大統領の権限が非常に大きく、状況により議会にかける必要がなく、圧力団体もおらず、政策打つにもspeedyにできるからであろう。ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディの歴代大統領とも、内政ではあまり成果なく、むしろ外交・軍事正面で顕著な成果を出している。

 あれ?歴代の皆さんは「内低外高」?では「内高外低」のジョンソン大統領には当てはまりませんね。しかし、この歴代大統領が外交・軍事に力を入れがちな理由のところが、私見ながら、ジョンソン氏の落ちた穴だったんじゃないかなと思います。ベトナム政策のような外交・軍事ネタには、公民権法案のような南部反対派のような関心団体は議会にも社会にもありませんし、必要あらばトンキン湾決議のように大統領権限で必要な処置がすぐに取れるのです。ジョンソン氏にあっては、持ち前の議会掌握能力を剛腕に発揮して、内政では寝技に持ち込んでやっとのことで成果を上げてきた彼にとっては、外交・軍事ほどこんなに楽なことはありません。国際政治、安全保障、戦略、危機管理等、予めの知識も経験もなかったジョンソン氏にとって、この楽勝正面が落とし穴だったのではないでしょうか。勿論、脇を固めていたのはベスト&ブライテストの面々。マクナマラ国防長官、ディーン・ラスク国務長官(日本で言えば外務大臣)、ジョージ・ポール国務次官、ウィリアム・バンディ国務次官補、マクジョージ・バンディ大統領補佐官(安全保障担当)、ウォルト・ロストー同次席補佐官、らの英才達です。彼らが細かいことは詰めに詰めてしっかりとやってくれるものだから、ベトナム政策において、ついついお山の大将的に自分の考えでまず結論を出してしまい、ケツは彼らが拭く形になったのではないでしょうか。
 (実は、これは留学時代に、「ウィルドフスキーの理論に一番当てはまるのは誰か?」という課題を出された際の、私の論文ネタでした。英語論文構成能力に劣る私としては、何とか他のネイティブ学生とは全く違った案を出して、教授の「ほう、日本の将校はそう来たか」と+α点をくれるのではないか、というアイディアでの作案です。結果はAをもらえました。)
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<デイヴィッド・ハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」を参考に>
 この本は凄いですね。まさに米国のジャーナリズムの金字塔的な名著です。ベスト&ブライテストと呼ばれた米国で最も優秀でピカピカの若き超英才達は、新進気鋭のケネディ大統領に声をかけられて、皆新しい時代を我々の手で作るのだと意気に感じて参集してきました。途中でジョンソン政権になりましたが、こんな米国史上稀に見る英才達が参謀を務め補佐したにも拘らず、なぜベトナム戦争という泥沼にハマってしまったのか?という重いテーマを、多くの関係者へのインタビューを基に詳細に分析しています。その深い分析を、頭の悪い私が分かる言葉でザックリと表現すると、「当時の米国の『米国は強いのだ、やろうと思えば実現できるのだ。我々が世界のリーダーなのだ。』的な時代の興奮の中、自意識過剰な英才達が判断を大きく誤った。折悪しく、この英才達に劣等感を持つ昭和の政治家ジョンソン氏が大統領だった」というというところでしょうか。英才達は「我々が間違うわけがない」と思って道を踏み外し、ジョンソンは英才達に「こいつらには頭じゃかなわない」という劣等感もあって細部は鵜呑みにするも、意思決定は外交・軍事オンチなジョンソン氏が握っていたのが運のツキだったのかもしれません。(実際の本の記述は、詳細にして深甚なる内容なので、決して上記のようなテキトーなものではありませんので、誤解のないように。)

<それでもなぜベトナム本格介入に舵を切ったのか?>
 ここまで考察したものの、結局この疑問は明確ではありません。端的には1965年7月に地上戦闘部隊を大規模派遣に踏み切りますが、なぜそっちに舵を切ったのか?或いは、あまりの国民的反発とベトナム戦争の行き詰まりから大統領選不出馬の発表するその直前まで、ベトナム政策は不退転の方針を取り続けたのはなぜか?
 参考まで、ジョンソン氏自身の手になる「ジョンソン回顧録」でのご本人の弁から概略申しますと以下の通りです。 

  引き返せる時点はあったのだが、自分の先達アイゼンハワー・ケネディ大統領が引いた路線から引き返せなかった。それは、共産主義の膨張に対して引き返した張本人・臆病者として、墓場まで暴かれて批判されるのが耐えられなかった。

 歴史の結果を知っている我々があまり偉そうなことを後知恵で言うのはよくありませんが・・・。やはり愚かですね。しかし、マクナマラ氏の教訓にある「相手に共感して考えよ」からすれば、米国の大戦後の歴史をひも解いてみれば、共感できるのかもしれません。大戦後、ポツダム体制なんてすぐに冷戦体制がとってかわり、米国が大人の対応をしている隙にソ連には東ヨーロッパを共産主義化され衛星国化。中国も蒋介石が代表だったはずが、中国共産党が中国本土を取ってしまった。アチソン国務長官が「防衛線は日本までかな」、なんて言ったら、じゃあ朝鮮半島は入ってないわけね、と北朝鮮が韓国に南進し、朝鮮戦争になった。これに中国が参戦しだした。すわ、米中対決か?と思ったら、それは米国が避けた。米国にマッカーシズムという反共ヒステリーの嵐が巻き起こり、トルーマンすら臆病者扱いされた。・・・こうしたことがジョンソン氏の頭にあったのでしょう。
 最後に、TVの都市伝説のような話ですが、ケネディ大統領未亡人ジャクリーン女氏によれば、「ケネディ大統領暗殺の犯人はジョンソンだ」とのこと。ずっと嫌いだったようですし、ケネディ大統領暗殺の直後、まだ数時間しか経ってないのに、無理くりワシントンに帰る飛行機に乗せられ、ジョンソン氏の大統領就任宣誓に立会させられたのは、忘れ得ぬ経験だったでしょうな。服も血が付いたままのを敢えて着替えなかったといいます。また、ジョンソンに仕えた顧問弁護士も同様の発言(真犯人はジョンソン説)があるそうです。もしそうだったら、このジョンソン氏というオヤジは相当なタヌキですね。

以上、、ジョンソン氏考でした。
(了)


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2018/10/07

マクナマラの教訓⑱: ジョンソン大統領をどう見るか

<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑱補足説明: ジョンソン大統領をどう見るか>

 「マクナマラ氏の教訓」シリーズの最後の補足=スピンオフとして、同氏の教訓のエピソードの中に出てくる2人の異彩を放つキャラクターについて補足させていただいております。前回がカーティス・ラメイ将軍、そして今回がリンドン・B・ジョンソン大統領です。2名ともそれぞれマクナマラ氏の教訓と関係が深く、かつそれぞれが危機管理を考える際に学ぶべき要素を有する強烈な個性を持っています。

 今回はリンドン・ジョンソン大統領について補足いたしします。ちなみに、マクナマラ氏は、ケネディ大統領に三顧の礼で迎えられて国防長官に着任した際、ジョンソン氏とは当初は副大統領として共に大統領を支え、じ後ケネディ大統領の暗殺に伴い急遽大統領に就任したジョンソン大統領に対しても献身的に(辞任するまで)支えました(過去ログの「マクナマラの教訓⑦、⑨、⑩」)。副大統領時代はマクナマラ国防長官とのからみはあまりありませんでした。これは、ジョンソン氏が副大統領という刺身のツマ的な地位・役割もあって、良く言えば「黒子に徹し」、悪く言えば「蚊帳の外」に置かれたからです。また、もう一つの理由としては、ジョンソン氏自身が元々内政に精通し、議員時代からの叩き上げの議会掌握能力を有することもあって、国防省正面の安全保障・軍事に関わる領域には全く口を出さなかった(よく分かっていなかった)ことも要因と考えられます。しかし、突然大統領としての絶大なまでの幅と深さを有する権力を持つようになり、否が応でも不得手な安全保障・軍事に関わらざるを得なくなりました。この図式がその栄光と挫折の大統領時代に終始影をかざすことになります。

 過去ログのマクナマラ氏の教訓⑦⑨⑩⑭に出てくるジョンソン大統領は、まぁ喰えない大統領です。⑦で言及したように、「ベトナム問題」を「ベトナム戦争」にした状況判断はジョンソン大統領のイニシアティブです。特に、ケネディ大統領当時の方向性では(そもそも本格介入しておらず、まだ「軍事顧問団」名目の派遣)「逐次撤退」のベクトルだったものを、ジョンソン大統領になってから「逐次増援」とし、トンキン湾事件を契機に本格介入に舵を取り、北爆の開始、地上戦闘部隊の大規模増派の途を歩み始めました。⑨や⑩では、北ベトナム軍や南ベトナムのベトコンとの泥沼の戦いに足を取られ、献身的に国防長官として支えていたマクナマラ氏も遂には数次にわたる方向転換の意見具申も空しく、ジョンソン大統領は不退転の構えを一向に変えませんでした。

***過去ログ⑦より
  映画では、1964年2月25日の肉声テープで、電話にてジョンソン大統領からベトナム戦争への関わり方について「修正したい」と言われ、当惑するも押し切られる同氏(マクナマラ氏)の声が聞こえます。この時、大統領がこういう文言をスピーチに入れてくれ、と注文したのが当時の冷戦ならではのドミノ理論です。・・・(中略)・・・
  驚くのはこのあとの大統領の発言です。「私は、これまで君が撤退について何か発表をするたびに馬鹿げたことだと思ってきたのだ。撤退について言及するなんて心理的に悪影響がある。君と前大統領の考えは私とは全く違うものであったが、当時私は黙って聞いていた。そこで質問だ、戦況が劣勢になって撤退を口にするなんてマクナマラの奴は一体何を考えているんだ?ってね。」

***過去ログ⑭より
  (1965年3月6日の肉声テープより)
  ジ: 「海兵隊が派遣される」という報は、国民への心理的インパクトとしては悪いものになるだろう。母親たちは誰もが言うだろう。「おやまぁ、やっぱりこうなったわ!」。B-57爆撃機で我々がやってきた北爆は、まだ日曜学校に行くようなものだ。海兵隊の派遣に比べりゃぁな。私の結論は「イエス」だが、判断としては未だ「ノー」なのだ。
  マ: 分かりました。我々国防省が対応しますから、大統領。
  ジ: 派遣命令はいつ発出するんだ?
  マ: 今晩遅く出す予定です。そうすれば日曜版の新聞で何社かは見落として記事にならないでしょう。発表にしても影響が最小限になるようにうまくやります。
  
***過去ログ⑩より
  同氏(マクナマラ氏)は、2つの写真を紹介します。ジョンソン大統領とマクナマラ国防長官が大統領執務室らしき部屋で議論している風景ですが、
一つは、マクナマラ氏が何かの懸案について意見具申していますが、ジョンソン大統領は怪訝な顔で当惑しているの図。  ・・・(中略)・・・
映画「フォッグ・オブ・ウォー」より①

  もう一枚の写真は、当惑するジョンソン大統領を背景に、説明しても説明しても一向に理解してくれないジョンソン大統領に対して、呆れ顔で頭を抱えるマクナマラ氏の図。  ・・・(中略)・・・
映画「フォッグ・オブ・ウォー」より②

  ベトナム政策について、マクナマラ氏はジョンソン大統領に(撤退を)意見具申しても説得できず、ジョンソン大統領は既定路線(このまま継続)で行くのだということをマクナマラ氏を納得させることはできませんでした。マクナマラ氏は言います。「ケネディ大統領にもジョンソン大統領にも同様に忠誠心を払い尊敬して仕えた。しかし、最終的にはジョンソン大統領と自分は、お互い対極にいることに気づいたのだ。」
  様々な意見具申がジョンソン大統領に容れられなくなる状況下で、ベトナムでは次々に新しい作戦名を冠して米軍の新たな作戦が繰り出されます。しかし戦況は悪化の一途。マクナマラ氏も遂に腹を決めます。1967年11月に、「現在の行動方針は完全に誤っており、我々は方向を転換、すなわち作戦を縮小し、死傷者を削減しなければならないのだ。」というメモにしたため、他の閣僚には論争を巻き起こすのは必定なので一切見せず、直接大統領に手渡します。・・・(中略)・・・ しかし、結局、大統領からは何の回答もなし。
***

 最初の⑦のエピソードは、ケネディ大統領当時にベトナム政策は米軍自体の本格介入は避け逐次撤退の方向であったところを、ジョンソン大統領がベトナムへの介入に舵を切った部分です。二つ目の⑭のエピソードは、それまでの「軍事顧問団」名目の派遣から初めての地上戦闘部隊派遣に踏み切る場面ですが、派遣の結論は既に自分で出したものの、自らの迷いをマクナマラ氏にぶつけ、増派の命令時期や公表の仕方やマスコミ対応はマクナマラ氏に丸投げしています。三つ目の⑩のエピソードは、ベトナム戦争が泥沼化する中、反戦デモも国民レベルとなってきた頃、マクナマラ氏は軌道修正の意見具申をしますが大統領には容れられず、最終的には撤退の建白書を書いて大統領には直訴するも答えてもくれず、これがマクナマラ氏の国防長官辞任の契機となりました。

 ジョンソン大統領は、1967年11月末のマクナマラ国防長官の辞任発表の後、クラーク・クリフォード新国防長官を向かえますが、1968年1月末に「テト攻勢」と呼ばれるベトコンによる大規模な攻撃を受け、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館まで一時占拠される程の状況となりました。現地にいた各国マスコミの特派員達も現地の混沌とした状況を本国に伝えました。特に米国本土では、ベトナム戦争の泥沼化はもはや誰の目にも明らか、かつ米軍が勝利を得ることは無さそうだ、という認識に変わりました。米国テレビニュース界で最も尊敬され「アメリカで最も信用される人」、「アメリカの良心」とまで国民的評価の高かったCBSテレビのニュースアンカー、クローンカイト氏が現地取材をした上で以下のようなコメントで締めくくったことが有名です。

  “But it is increasingly clear to this reporter that the only way out then will be to negotiate, not as victors, but as an honorable people who lived up to their pledge to defend democracy, and did the best they could.”
  「この状況から抜け出す唯一の道は、(米軍は、)軍事的勝利者としてではなく、『民主主義を守り、できる限りの最善を尽くします』との宣誓に従って行動する尊敬すべき人々として、交渉すること以外にないと、このリポーターの目には明らかであります。」

 クローンカイト氏は、それまでニュースを忠実に国民に伝えることを信条とし、自分の考えなどをコメントしたことのない人であっただけに、現地取材の結論としていつにない苦悩の表情で政府や米軍の政策について批判的なコメントをしたわけです。この影響力は大きく、マスコミの論調も国民の一般的受け止め方・世論もこれを機に批判的に変わりました。
 そして、これまた有名な話ですが、これを受けてジョンソン大統領が、「If I've lost Cronkite, I’ve lost middle America. もし私がクローンカイトを失ったとすれば、私はアメリカの中産階級を失ったことになる。」と副官に漏らしたといいます。丁度この年に大統領選挙があることもあり、マスコミの論調も舌鋒激しく、2期目も再選を目指すジョンソン現大統領のベトナム戦争政策は槍玉に上がりました。それでも現路線維持を変えなかったジョンソン大統領でしたが、遂に、同年3月31日夜、大統領から国民へのメッセージ放送の中で、当初の予定にはなかった次期大統領選挙には出馬しない旨の電撃発表をしました。直接の切っ掛けは、戦況はかばかしくない現地の状況に鑑み、現地のウェストモーランド大将から20万人の更なる増派要請をクリフォード新国防長官が拒み、大統領に対し遂に逐次縮小を訴えたことでした。ジョンソン大統領としても、「もはやこれまで」と観念したわけです。マクナマラ氏の辞任が、発表が1967年11月29日、正式離任が1968年2月29日ですから、僅か1ヶ月でした。
President LBJ speech decision not to run for re-election


 次回は、この続きとして内政の観点からジョンソン氏を考察し、内政で高く評価される一方安全保障・外交で酷評された同氏について、ウィルダフスキー(予算編成等で高名な政治学者)氏の「The Two Presidencies」という論文をフィルターに考察してみたいと思います。
(つづく)


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2018/10/01

マクナマラの教訓⑰: 戦略爆撃の鬼ラメイ将軍(後編)

<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑯補足: 戦略爆撃の鬼ラメイ将軍>

 前回に引き続き、「戦略爆撃の鬼ラメイ将軍(後編)」をお送りいたします。
LeMay (2)
(本「LeMay: The Life and Wars of General Curtis LeMay 」 by Warren Kozak, Hardcover – May 11, 2009 より)

(つづき) 
○ 1948-1957頃: 戦略航空軍団司令官としての核戦力における戦略爆撃重視 (ここからは、主として米版wikipediaを参照。)
 当時、米ソは核開発競争に勤しみ、核戦力をいかに保有すべきかが議論されていた。ラメイ氏は、「全てを粉砕することが戦争に勝つ方法である」との信念の下、戦略航空軍団が米国の核戦力の主軸であり、米国の核の80%を搭載・運搬すべきである、との持論で空軍上層部と共同戦線を張っていた。それを裏打ちするため、戦略航空軍団の緊急戦争計画を、ソ連の70都市に対して133個の原子爆弾投下を30日以内に遂行できるよう準備し、「第3次世界大戦は30日以内で終わる」と主張。これを後押しするように、ソ連に対する大量核攻撃としてこれで量的に十分なのか?という議論があり、空軍参謀長は、攻撃目標70都市から220目標に拡大され、これに十分な原子爆弾が必要、との路線変更を実施した。ラメイ氏の核における圧倒的数的優勢論が採用される形になったと言えよう。
 ラメイ氏は、戦略航空軍団司令官の任期の間に、常に核戦争に勝てる態勢を取らねばならないと考え、爆撃機と燃料給油機とを24時間警戒体制、全ての航空機のジェットエンジン化、精鋭警備部隊による警備、徹底的な訓練、等により軍団の即応体制を維持し、本気で核戦争に勝つ態勢を保持した。

○ 1961-1965頃: 空軍参謀長として核戦力の主軸は戦略爆撃との持論を曲げず
  マクナマラ国防長官の強力な指導態勢の下、統計学的分析手法で軍事予算の費用対効果性を追求される中、あるべき核戦力の在り方をめぐって国防長官、統合・陸・海・空参謀長間で度々衝突。陸軍は、核戦争下の戦場における核砲弾を火砲や迫撃砲で射つ戦闘に適応することまで検討。他方、海軍は戦略核を搭載・運搬するためにソ連空軍の制空域に切り込んで行くスーパー空母を検討。陸海軍の迷走の中、空軍参謀長ラメイ氏のみは冷静に変化しつつある冷戦時代の現実に適応した戦略航空軍団の最新鋭化で対応。(この際、ラメイ氏は大陸間弾道弾ICBMプログラムに対してはあまり熱心ではなく、現実的には爆撃機による戦略爆撃のみが有効で、ICBMなどはオモチャに過ぎないと確信。)各軍種との軍事予算獲得競争では、陸海が大幅な削減をされる中で、空の独り勝ちを獲得した。
 ラメイ氏の核戦力における戦略爆撃機の重視論は、同氏の以下のような考えに基づく。弾道弾ミサイルという装備体系の重要性は米ソにとって重要であることは十分に理解するが、低強度の紛争に対して弾道弾ミサイルを使用するというオプションは、紛争を制御できないエスカレーションに瀕させてしまう。従って、ICBMやSLBMなどは国家の存亡が切迫するような事態でない限り、理性的・合理的判断に供せる信頼性の高いオプションではない。冷戦、限定戦争、総合的戦争などを通じて柔軟に対応可能で、人間が操作していて信頼性の高く、総合的に国家の安全保障にとって信頼できる装備体系は、結局は戦略爆撃機なのだ。

○ 1962年: キューバ危機における「優位なうちに敵を撲滅」論
 キューバ危機に際して、ケネディ大統領とマクナマラ国防長官と激論。ラメイ氏は、国防長官の海上封鎖案に反対し、キューバの核ミサイル基地をさっさと爆撃すべしと主張。結果的に、海上封鎖が採用され秘密裏の交渉と相まって危機は回避されたが、ラメイ氏は核ミサイルが撤収された後も「とにかくキューバを侵略すべし」と主張した。(映画「フォッグ・オブ・ウォー」のマクナマラ氏の発言によれば、大統領を囲む首脳陣の会議でケネディ大統領が「諸君、我々は勝った。」と危機回避を満面の笑みで告げた際、ラメイ氏は、「Won?, Hell! We lost! Wipe them out today!(勝った?冗談じゃない、負けたんだよ。今からでもキューバを爆撃で一掃しなきゃいかん!)」と叫んだと言う。)

○ 1963-1966頃: ベトナム戦争時にも戦略爆撃を主張
 ベトナム戦争の初期において、低強度の紛争下でマクナマラ国防長官に厳しくコントロールされながら航空作戦を展開していることから、米空軍の戦闘機の空中戦闘や戦術爆撃等がうまく遂行できていない旨指摘をされるのが、ラメイ氏にとっては我慢がならない状況だった。実態は、米軍機は大型のミサイル装備で重厚鈍重化し、機関銃装備の軽快機敏なソ連製戦闘機に勝てない形となっていた。ラメイ氏は、北ベトナムの主要都市、港湾、南ベトナムへの支援補給(施設、補給船、補給車両そのもの)、等の戦略爆撃作戦を継続的に実施すべきである、と主張。この際に、「(北ベトナム政府との交渉などせず)、“bomb them back to the stone age!”奴らを爆撃してやれ!石器時代に戻してやる。」と発言したということがラメイ伝説になっている。しかし、ジョンソン大統領・マクナマラ国防長官ら首脳部は、あくまで中国やソ連に本格介入のキッカケ(中国やソ連の補給船舶や政治・軍事の顧問団などに被害を与えないよう)を与えないように、限定的かつ慎重に目標を選定した戦術的な爆撃となった。

 以上のようなエピソードがあります。興味深い人ですよね。
 発言そのものは粗野だったりストレート過ぎるところがありますが、元自衛隊幹部であった感覚からすると、ラメイ氏の言わんとするところは非常によく分かります。要するに、ラメイ氏は実直かつ愚直に自分の任務の達成に向け邁進していたのだと思います。その当時の自分の地位・職責から、与えられた任務に忠実にあろうと努めたのでしょう。第2次大戦中の戦略爆撃については、当初ドイツ、じ後日本に対し、これ以上の戦争遂行を諦めさせるだけの戦略爆撃効果を成果として出すこと。戦略航空軍団司令官の頃は、米ソ冷戦下の現実の中で、原子爆弾及びその運搬手段について数的優勢を確保しているからには、即応態勢を高く維持して何時でも戦略爆撃の出撃ができ、それによってソ連を圧倒撃滅できる態勢を保持しておくこと。そして、空軍参謀長の頃は、空軍の態勢を維持するとともに、安全保障に関して国家としての執るべき策を大統領を空軍の観点から補佐すること。具体的には、いまだ数的優勢を確保しているのならばソ連との核戦争すら辞さず、我が損害を考慮しても最強の敵ソ連を撲滅するということも国家としてオプションの一つ、との持論で大統領を補佐すること。最後の部分は、そのオプションを大統領が選択しなくて誠に幸いでしたが、ラメイ氏はただのタカ派で威勢のいいことを言っているわけではなく、愚直に意見具申したものと思われます。与えられた任務に対して、その達成に向けて必要な手段は尽くす、その際に一切の感情を挟まず、効率効果を最大限に追求し、必ず任務達成をする。軍人としてのマインドそのものです。
 しかしながら、ラメイ氏についてやはり多くの方から糾弾されるのが、任務達成・戦勝追求の手段として、時として非人道的なことも躊躇なく主張したり、命じられれば実行するところでしょう。確かに、キューバ危機の際にソ連との核戦争も辞さずにキューバを攻撃していたら、米ソ間の大量核兵器の射ち合いとなって、勝負は米側の勝利で終わるかもしれないものの、米ソ双方の夥しい数の国民が犠牲になり主要都市が廃墟となり、・・・そこに勝者はいません。幸いにして、理性的・合理的判断のできる大統領や国防長官が賢明にもその案を採用しませんでした。
 ちなみに、ラメイ氏のこの考え方は、実はラメイ氏独特のものではなく、米国にとっては伝統的なある原型に基づくものです。日本人にはあまり馴染みがない米国の南北戦争ですが、中でも有名なシャーマン将軍がその典型です。過去ログの「マクナマラの教訓⑨」の「善を為さんとして悪を為さざるを得ないことがある」でも既述した部分ですが、マクナマラ氏の言葉をそのまま使わせていただきます。
  「善を為すためなら、我々はどれほどの悪を為さねばならないのだろうか?我々には確たる理想があり、確たる責任がある。時として悪に従事せざるを得ないことも認識している。しかし最小限にとどめねば。南北戦争の話だが、シャーマン将軍の逸話を思い出す。アトランタ市長が敵将のシャーマン将軍に街を焦土にしないでくれと懇願するが、『戦争とは冷酷/悲惨なものなのだ。』と言った直ぐ後に街に火をつけた、という。これはまさにラメイの考えと同じなのだ。彼は国を、国家を救おうとしたのだ。そして、その過程において、必要とあらば如何なる人殺しさえする覚悟だったのだ。」
 米国では、南北戦争は国民必須の歴史です。米国にとって、民主国家になってからの痛恨の出来事で、国論を二分した挙句に南部諸州は北部と国家を割る挙に出たため、南北はそれぞれの市民が構成要素の南北軍に分かれて戦いました。つい先日まで尊敬し合う仲間であった将軍や将校たちが、自分の生まれの側について戦いました。一たび戦争が始まると、日本で言えば明治維新の幕軍と官軍の戦いと同様に、一方が完膚なきまでに撃破粉砕されるまで徹底して戦うことになります。そこに条件降伏という妥協案はないのです。北軍の後半の戦い方は、シャーマン将軍のみならず、勝つためにかなりえぐいことをしました。これは軍人の性格と言うよりも、当時のリンカーン大統領が暗黙にそれを要求したからです。南北戦争におけるリンカーン大統領は、実に戦争指導者/作戦指揮官だったのです。この線から下がるべからず、とか、この都市は必ず我が手中にせよ、とか、この都市は南部の力の源泉なので使用できなくせよ、と大統領の意思が電信で伝えられ、将軍たちは求められることを具現しました。シャーマンは敢えて焦土作戦という策をとりました。南部の拠点である主要都市を焼き討ちしてしまうのです。商工業の中心を徹底的に破壊することにより、継戦能力や戦争継続の意思そのものを挫いてしまうのです。シャーマンは非人道的であることは百も承知で「悪を為す」わけです。これは、米軍にとっては伝統的な考え方なのです。勿論、時代の変遷に従い、非人道的なことをすると後で糾弾・追及されるの、最近はかなり人道的になってきたとは思いますが。


 ラメイ氏の話に戻ります。ラメイ氏の考え方を見てまいりましたが、「なんて奴だ、とんでもない奴だ。」と皆さんお思いのことと思います。今回のお話の最後は、ラメイ氏の人となりについてもう少し掘り下げるエピソードを紹介して終わりにしましょう。
 ラメイ氏の生い立ちですが、1906年オハイオ州にて鉄鋼労働者であったものの定職につかない父親と後に教師となって家計を支えた母親との間に生まれました。一家は家計のやり繰りに苦労し、あちこちを転々としたあげくに、故郷オハイオに落ち着きます。ラメイ氏は8歳にして「自分が家計を支えないと、母や兄弟たちを食わせられない」と一念発起したそうです。無口で休まず働く子に育ったようです。学校には公立しか行けず、大学では予備役将校制度で予備役になる代わりに学費を保障してもらいました。これが軍隊との出会いでした。こうした生い立ちがラメイ氏の人となりの原点のようです。
 映画「フォッグ・オブ・ウォー」のマクナマラ氏の発言によると、第2次大戦中の爆撃機隊の指揮を執っていたころのラメイ氏は、基本的に無口で(たまに言葉を発するときは、結構残酷な暴言に近い発言をする)、部下の報告に対し「分かった」/「いや違う」の2語しか答えず、自分に対する批判を一切許さない、そんな厳しく怖い上司だったといいます。また、部下達からつけられたニックネームでは、「old iron pants」、「Big Cigar」、「ever-present cigar」というのがあります。old iron pantsとは、いかなるプレッシャーにも物事に動じず、休みを取らずに働き続ける、という意味があるらしいです。そういう上司だったんでしょう。Big Cigarとever-present cigarというのは、ラメイ氏が常時タバコをくわえているところから見ての通りのあだ名がついたものです。米版wikiによれば、戦略航空軍団司令官の頃、ある任務を視察した際に、ラメイ司令官は飛行中の副操縦手席に座ってタバコをくわえ火をつけようとしました。さすがにパイロットがこれを制止しました。「何で?」とラメイ氏。「火が機体に着火するかもしれないではないですか?」とパイロット。これに対し「まさか火がつくわけないだろ!」と悪態をついたといいます。困ったオヤジですね。
 しかし、調べてみるとこれがビックリでした。実は、部下からは、「要求は高いしパワハラ気味で強面ながら、ついて行けば必ず勝つ。」と信頼を得た上で、そんな「俺たちのオヤジ」への愛称として「old iron pants」、「Big Cigar」、「ever-present cigar」と親しみを込めて呼ばれていたようです。というのも、ラメイ氏は部下に徹底した実戦的訓練を要求しますが、これはやや特権階級的な立場にあったパイロット達のみならず、誰に対しても職責・任務に応じたレベルの高さを求めて分け隔てなく厳しく訓練をしたこと、それでいてon-offを明確に分けさせ、パイロットのみならず一兵卒に対しても厚生面を充実させたこと、等が部下から信頼を勝ち得たようです。また、上司からは、「戦略爆撃に関して右に出る者はいない」との絶対の信頼を勝ち得ています。戦略爆撃に関しては、実際の実力が物語っているので、信頼を得られたことは十分頷けます。それもさることながら、ラメイ氏は、上司の命じた内容は忠実に履行することに定評があったようです。ラメイ氏的には「こっちの方がいい」と思っていても命令からは逸脱しませんでした。自分の与えられた職責の範囲では様々なチャレンジをするのですが、命じられたことは必ずやる男でした。B-29で日本から米国本土へノンストップ飛行をした際も、上司が指揮する編隊で数機が同じルートを飛び、自分の操縦する飛行機は本当はワシントンDCまで行けましたが、上司の機体がシカゴで燃料補給が必要となり、自分の機体だけで記録を作れたのに、編隊と行動を共にしました。そういうところが、上司たちからの信頼を得て、南北戦争以来の最若44歳で大将となり、空軍のトップにも立たせたのでしょう。また、こんな強面のオヤジですが、それでも孫から見たら、「いつも釣りに連れて言ってくれる優しいお爺ちゃん」だったそうです。
 (了)
 

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2018/10/01

マクナマラの教訓⑯: 戦略爆撃の鬼ラメイ将軍(前編)

<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑯補足: 戦略爆撃の鬼ラメイ将軍(前編)>

 マクナマラ氏の教訓を反芻して参りましたが、いかがでしたでしょうか。マクナマラ氏の教訓シリーズはこれで一段落させていただき、じ後の数回は同氏の教訓のスピンオフとして、同氏の教訓のエピソードの中に出てくる2人の異彩を放つキャラクターについて補足させていただきます。まずは同氏が第2次大戦時の日本本土への空襲に携わった際の上司だったカーティス・ラメイ大佐(③、④)、そして、ベトナム戦争時に同氏が仕えたリンドン・ジョンソン大統領です。2名ともそれぞれマクナマラ氏の教訓と関係が深く、かつそれぞれが危機管理を考える際に学ぶべき要素を有する強烈な個性を持っています。

 今回はカーティス・ラメイ氏について補足いたしします。ちなみに、マクナマラ氏は第2次大戦時に当時ラメイ大佐の部下でしたが、その後マクナマラ氏がケネディ大統領から国防長官を拝命した際に国防省下の空軍参謀長だったのも大将に昇進したラメイ氏であり、今度は部下として、キューバ危機やベトナム戦争初期まで付き合うことになり、マクナマラ氏とは何度も衝突しました。それでは、ラメイ氏の略歴とその強烈な人となりについて紐解いて参ります。
LeMay (2)
(本「LeMay: The Life and Wars of General Curtis LeMay」 by Warren Kozak, Hardcover – May 11, 2009 より) 

 米空軍の同氏の経歴資料(https://www.af.mil/About-Us/Biographies/Display/Article/106462/general-curtis-emerson-lemay/)によれば、略歴は以下のようなものです。
(一部、米版wikipedia(https://en.wikipedia.org/wiki/Curtis_LeMay)を参照。)
 カーティス・ラメイ氏は、オハイオ州立大出身で、1928年に陸軍航空士官候補生となり、翌年予備将校として少尉に任官、更に翌年1930年には正規将校として陸軍に入隊、パイロットになりました。当初は戦闘機、じ後は爆撃機のパイロットとして活躍します。B-17爆撃機の部隊にて、爆撃機の編隊の組み方や戦闘要領等を具体化し、かつ徹底的な実戦訓練で部隊を鍛え、それが欧州正面の爆撃部隊のスタンダードになるほど頭角を現し、1941年12月の第2次大戦への参戦当時には新編の第305爆撃群の指揮官でした。欧州戦線でドイツやポーランドに対する戦略爆撃(空襲)等を歴戦したのち対日戦線に移り、ここで当時陸軍統計分析局のエリート分析官だったマクナマラ中佐が指揮下に入ります。当初はインド~ビルマ~中国から、じ後マリアナ諸島から日本本土への戦略爆撃に従事し、原爆投下もラメイ氏の指揮下部隊が実施しています。終戦後、ラメイ氏は日本からアメリカ本土へB-29を自らも操縦し無着陸飛行で帰国しています。ちなみに、様々な記事によると、大戦直後ラメイ氏は大戦終結のヒーロー的に社会に受け止められ、タイム誌の表紙に顔が載ったこともあったそうです。戦後、ワシントンでの勤務の後、1947年に欧州派遣米空軍司令官としてベルリン空輸を指揮し、翌1948年には戦略航空軍団の創設に当たり戦略航空軍団司令官を拝命し、このポストをなんと10年間務め、現在も戦略核戦力の主力である戦略航空軍団は、実にラメイ氏が手作りでカスタマイズした部隊です。(ちなみに米版wikipediaによれば、この期間に最若44歳(南北戦争以来の快挙)にして米空軍の4スタージェネラル=空軍大将に昇進します。)自衛隊では絶対あり得ません。第2次大戦で戦略爆撃に中核的役割を果たし、かつ、核時代の戦略爆撃の重要性を勘案しての人選・昇進であろうと思われます。そして、ついに1961年に米空軍のトップ、空軍参謀長に就任します。1965年2月に退官するまで、結果的にアイゼンハワー政権、ケネディ政権、ジョンソン政権、と3代にわたって仕え、ベトナム戦争の1962年の北爆開始直前に退官するまでの4年間、空軍のトップとして君臨しました。(これ又ちなみに、米版wikipediaによれば、退官の頃のラメイ氏は好戦的で問題の多い空軍参謀長と社会に受け止められ、パロディに使われる等こき下ろされたりもしたようです。)なお、退官後に1968年の大統領選挙に独立党派からの副大統領候補として出馬(勿論落選しましたが)というご乱心もありました。
 
 略歴上は、卓越した識見と歴戦の実戦経験を有する類い稀な超エリート軍人に見えますが、何と言ってもこの人の「類い稀」な所はその強烈な個性が炸裂するエピソードのユニークさでしょう。しかも、そのエピソードが語るのは単なる変人・狂人ではなくて、彼なりの徹底した戦勝追求、そのためなら効率効果の最大限化のため如何なることでも(非人道的であっても)手段として使うこと、加えて話す言葉がストレート過ぎる、ということでしょう。この姿勢は、決して万人のお手本にはならないものの、国際情勢、国家の安全保障や危機管理を考察するに当たっては、こういう実例、手段、考え方もあるのだ、と学べる題材として非常に貴重です。

 そんな観点から、その幾つかのエピソードをご紹介致します。

○ 1943-45頃: 第2次大戦中の戦略爆撃における戦勝の追求 (過去ログの「マクナマラの教訓④」及び「同⑤」を参照ください。ここは映画「フォッグ・オブ・ウォー」を参照。)
 *対ドイツの爆撃に従事していた際、爆撃に出撃した航空機が途中で引き返してくることが多いという問題があり、当時陸軍統計分析局から派遣されたマクナマラ中佐がデータを取ってみると、abortion rate(出撃中断率)が20%にも及ぶことを確認。その理由を調査し、データ化したところ、実際の敵機による撃墜率は4%程度と低いとはいえ、撃墜される恐怖によるものと分析。これを聞いたB-24爆撃隊の隊長であったラメイ大佐は激怒。自分が出撃隊の先頭機を操縦、「俺が出撃の都度、毎回先頭を飛ぶ。離陸した爆撃機は必ず目標に爆撃しろ、途中で引き返した奴は軍法会議にかけてやる!」と宣言。出撃中断はパッタリと激減した。
 また、日本版wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4)によれば、対独爆撃に従事していたこの頃、爆撃の良心の呵責に悩む隊員に対して、「(君は)何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供の上に崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ3歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなことは忘れることだ。」と言い聞かせたと言う。
 *米カンザス~インド~中国~日本本土という経路でのB-29爆撃隊を指揮していた際、出撃基地である中国成都の劣悪な飛行場立地と中国人労働者の劣悪な労働により、非効率性から成果が出ず。マクナマラ中佐の分析に基づく進言もあって、ラメイ大佐がこれを一変し、上級部隊に進言し爆撃拠点を大きく変えて太平洋のマリアナに変更。このマリアナからの日本本土爆撃が日本の各都市に大被害を与えた。
 *他の指揮官が爆撃回数や投下爆弾数を競った中で、ラメイ大佐だけはtarget destruction=目標の破壊を徹底的に追求。ラメイ大佐の目標破壊の徹底に、マクナマラ中佐も統計学的分析手法で効率効果の最大限化に幕僚として貢献。ラメイ大佐の凄いのは、その部下への企図の徹底ぶり。マクナマラ中佐は、B-29は高射砲や日本の迎撃機から逃れるために高度7000mから爆撃できるように作られ敵機や高射砲による損失率は低いものの、肝心の爆撃精度が低い旨、分析の結果を報告。これを受け、ラメイ大佐は目標破壊の徹底的追求の観点から、爆撃高度を1500mまで下げさせ、更に、爆弾は木造家屋ばかりの日本の市街地を前提に焼夷弾に変えさせ、徹底的に日本の各都市を破壊することを部下に要求。3月9日の東京大空襲(日本時間3月10日)で、ラメイ大佐の部隊が一夜にして東京を焼け野原に破壊。爆撃任務後、マクナマラ中佐らが成果の聞き取り調査をした際、部下の不満が爆発、「B-29は高高度から爆撃できる最新鋭機なのに、一体どこの馬鹿野郎が1500mまで高度を下げさせたんだ!僚機が撃墜されたじゃないか!」とある大尉が発言。これに対し、ラメイ大佐は一喝。「俺たちはなぜここにいるんだ?確かに貴官は僚機を失った。貴官と同様、俺も心を痛めている。命令したのは俺だ。俺が貴官らを東京上空に行かせた。俺もどういう場所か分かっているし、(高度を下げたことで)危険も承知の上だ。しかし、一機の損失があった一方、我々は東京を壊滅させた。50平方マイル(130平方キロ)を焼け野原にした。東京は木造の街なので、焼夷弾を投下することで瞬く間に東京を焼け野原にしたのだ。」ラメイ大佐は、爆撃の効率・効果の最大限化のために爆撃機の飛行高度を敢えて下げ、対空砲火や迎撃機で撃墜される可能性が高まろうとも、爆撃精度の向上=目標都市の破壊を追求させ、批判を承知で効率性を最大限化した。
 *日本本土空襲では、計67回、日本各地の主要都市の50~90%もの一般市民を空襲で殺傷し、その上で広島・長崎に原爆を投下した。日本本土のどこを目標とし、どの程度の爆撃成果を得れば日本にとって戦争継続が困難になるであろう、と見積・分析・計画で寄与していた若きマクナマラ中佐は疑問を持ち、戦勝追求のためとはいえ「釣り合う」という線を越えてはいけないのではないか、「釣り合っているか」というのをガイドラインにすべきだ、と意見を述べたがラメイ大佐はこれを一蹴。次々と本土空襲を要求。更に、原爆投下というダメ押しが政治判断で下り、大佐は何の迷いもなく命令を実行。ラメイ大佐曰く、「もし戦争に負けたら、我々は戦争犯罪に問われるだろうな。」

 (つづく) 


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2018/09/24

マクナマラの教訓⑮: 数値的データ信奉の陥弊 

<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑮補足説明: 本人が語らなかったこと -数値的データ信奉の陥弊->

 前回(国民への説明責任)に引き続き、インタビューを主体としたこの映画の中で本人が語らなかったこと、特に戦争指導上の責任について、補足説明させてください。とりわけ、マクナマラ氏が自分の仕事の流儀として信奉した数値的データに基づく統計学的分析手法について、その陥った問題点にスポットライトを当ててみたいと思います。勿論、国防長官当時にスポットライトを当てますが、恐らくは同氏の生涯を通じて「数値的データに基づく統計学的分析」を自身の仕事の流儀としていたものです。

 同氏の国防長官以前の経緯については、このブログ「マクナマラの教訓」シリーズの④⑤⑥で記述した通りです。カルフォルニア大学バークレー校で大学時代を過ごし、奨学生制度の賞を取ってスタンフォード大学大学院のMBAに学んだ同氏の専門分野が数値的データに基づく統計学的分析であり、第2次大戦中はその専門分野を駆使して戦略爆撃に貢献します。戦後は、スタンフォードの仲間たちと組んでフォード社に自らを売り込み、仲間たちごと入社。フォード社でも、数値的データに基づく統計学的分析手法を駆使して傾いていた会社の業績をV字回復させ、遂には社長に大抜擢されました。と思ったら、社長在籍わずか5週間にして新生ケネディ政権の国防長官にサプライズ人事で大抜擢され、国防長官に鳴り物入りで就任しました。当時当代随一の政治評論家であったウォルター・リップマンから「過去最高の国防長官、初めて軍部に対する完全なシビリアンコントロールを敷いた男、IBMコンピュータを脳に搭載した男」等と褒めちぎられた程です。
 このサクセスストーリでもわかるように、マクナマラ氏にとって数値的データに基づく統計学的分析手法は最大の武器であったわけですが、実はこれこそが同氏にとって功もあれば罪でもある、薬にも毒にもなる「諸刃の剣」であったのです。
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 その最たるものが、今回お話しする「ボディカウント(body count)」というものです。これは軍事作戦の成果を測る指標として各部隊に報告させた数値的データで、早い話が敵の死体の数です。敵の死体を増大させ、我が損害は局限する、というバカバカしいくらい単純な数値的データなわけです。
 MIT Technology Reviewにケネス・キューキャー氏とビクトール・メイヤー=ショーンバーガー氏の共著で「The Dictatorship of Data」(https://www.technologyreview.com/s/514591/the-dictatorship-of-data/)という記事にその「罪」ないし「毒」の部分が分かり易くまとめられていたので、以下つたない要約を試みます。

*********以下、前述の「The Dictatorship of Data」の要約
  マクナマラ氏は、1960年代初期、ベトナムの緊張が高まってきた時にベトナムに関し可能か限りの全てのデータを集めさせた。同氏は、データの中にこそ真実があり、統計学的分析のみが意思決定者(大統領)に対して複雑な状況を理解させしむる、と信じていた。ベトナムにおける紛争の段階的拡大と派兵拡大につれ、この戦争は領地取得のための戦いではなく「意思」の戦いであること明白になってきた。米国にとり、ベトコンを交渉のテーブルにつかせるために叩きのめすのが戦略であった。その成果を測る指標として「ボディカウント」という敵の死体の数値データを報告させることとした。このボディカウントは毎日報告され、新聞にも載せた。しかし、確かに成果は数値で可視化して分かり易いかもしれないが、非倫理的・非人道的であり批判の的にもなった。同氏にとっては、このデータをもってすれば、現地で何が起きていて成果はどうなのか明確に分かる、と信じて疑わなかった。
  1977年(ベトナム戦争終結の2年後)、ダグラス・キンナードが「The War Managers」を出版し、米将軍のたった2%しかボディカウントが成果を測る指標になると思っていなかったことを明らかにした。彼によれば、ボディカウントは“A fake—totally worthless,”=「まやかし、完全に無意味」だったと言う。ある将軍の言によれば、「ボディカウントの数値は基礎の段階から多くの部隊によってひどく誇張された数値が報告された。それは、マクナマラ国防長官のような人々によって信じ難いほどの関心を集めるものだったからだ。」ということだ。
  ベトナム戦争間で見られた数値の使用、濫用、そして誤用は、情報の限界を痛感させる教訓だ。基本的にデータは質がお粗末になり得るものであり、偏ったものになり得るものであり、分析を誤らせミスリードさせ得るものなのだ。利より害がむしろ多い。これを「データの独裁」と言う。ある部分では、ボディカウントがベトナム戦争をエスカレートさせたとも言える。その証左でもあるのが、マクナマラ氏のこの苦しい言い訳だ。「(戦争における)人間の状況の想像しうる複雑性というものでは、グラフの線やチャートのパーセンテージ、バランスシートの数字等が示すものを減じることはできなのだ。全ての現実は説明しうる。数値化できるものを数値化しないことは、理屈付けを満足させることはできない。(やはり数値的データをもって説明しなければ理屈付けはできない。」
*************要約終わり
 、
 また、社会学者のダニエル・ヤンケロビッチ氏は、「マクナマラの誤謬(The McNamara fallacy)」と題して、マクナマラ氏の陥ったデータ信奉について非常に手厳しく批評しています。 (日本語訳はブログ主です。)
(https://expertprogrammanagement.com/2017/07/the-mcnamara-fallacy/)

  1. 測定容易なものは何でも測定せよ。
  2. 容易には測定できないものは無視せよ。
  3. 容易には測定できないものは大事なものではなかったと思え。
  4. 容易には測定できないものはそもそも存在しないのだと思え。


 マクナマラ氏も、こんな言い方はしていないと思いますが、こう酷評されても仕方のないくらいの信奉ぶりだったのでしょう。
 結局、数値的データというものは、分析のための有用なツールかも知れませんが、数値的データが一人走りしてしまっては、正確でない、誤った、偏った、或いは改ざんしたものであっては適正・適切な分析の資にはならないのです。もし至当に分析され、至当な政策提言ができたとしたら、それは数値的データが素晴らしいのではなくて、単に正しく十分なinformationがintelligenceとして適切に使用され、適切な分析ができた、意思決定者の状況判断に使用してもらった、というだけのことなのです。また、データ信奉そのものも勿論ですが、日本人的には(もしかしたら全世界的にも)、現地の部隊に成果の指標として死体の数を数えさせ、その数値が毎日の新聞に載っていて、これを国防長官が作戦の進捗の成果の指標としてグラフで示して国民に説明する、この絵柄が耐えられない程に非倫理的・非人道的ですよね。周囲の優秀な官僚たちもおかしいと思わなかったんですかね。どうせ指標にするなら、国民世論に支持される政府の姿を目標にして、成果として南ベトナム政府の支持率にするとか、何か他の指標があったのではないかと思います。毎日報告を義務付けられる現地の兵隊さんの身になって、或いは毎日テレビのニュースで死体の数を聞かされるお茶の間の国民の身になって考えたら分かるのではないかと思うのですが・・・。
 マクナマラ氏ともあろうものが・・・。自分で教訓として語っているではありませんか。fog of war、戦争という複雑怪奇な変数のある深い霧のかかった社会現象を人間なんぞが霧を晴らせるわけがないのですよ。いわんや、ボディカウントなんていう単純な指標で現地をクリアに見られると思ったというところがアウトですよ。まさに、戦争の霧、fog of warって含蓄がありますね。 
  (了)


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