マクナマラの教訓⑲: ジョンソン大統領をどう見るか(後編)
<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑲補足説明: ジョンソン大統領をどう見るか(後編)>
(つづき)
前編では主としてマクナマラ氏の視点から、ジョンソン大統領のベトナム戦争を中心に考察しました。食えない親父でしたね。しかし、ベトナム政策のみでジョンソン大統領を評価するのも片手落ちなので、後編では内政面では大きな成果を上げている点を踏まえ、内政で高い評価を得た反面、外交・安保が命取りとなる程の低評価となったジョンソン大統領について、予算編成等で高名な政治学者ウィルダフスキー氏の「The Two Presidencies」という論文が丁度うまく当てはまるので、考察してみたいと思います。また、参考まで、ハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」及び「ジョンソン回顧録」にも言及して、極めて複雑なジョンソン氏のベトナム政策の片鱗をつかむべく考察を試みます。

ケネディ大統領暗殺から間もなくワシントンに向かう機内で大統領就任宣誓(ジョンソン氏の右はケネディ大統領夫人ジャッキー
<ジョンソン大統領の内政における評価>
我々日本人が米国大統領のニュースを耳目にする場合、その多くは外交・安全保障や貿易などの国際経済正面だと思います。中々、米国内の内政政策にはニュースも含め関心が向かないものです。しかし、ジョンソン大統領の内政正面での成果は、あぁ聞いたことがある、と思い当たる節があるほど、世界史等の教科書に載っているほどの素晴らしいものがあります。
ジョンソン氏は、「Great Society(偉大な社会)」の実現を旗頭に、黒人差別の本格的撤廃を意味する公民権法を成立させ、「War on Poverty(貧困との闘い)」を提唱して貧困層(結局は黒人が対象でしたが・・・)へ公的援助の手を差し伸べたほか、社会福祉、社会保障、医療、教育などこの種の法案を次々に成立させ、歴代大統領の中でもかなり斬新な改革を達成しています。とりわけ、リンカーン時代に奴隷解放までいったものの、その後100年黒人差別政策は文化としても法制度としても米国に根付いていたこの問題に、本格的にメスを入れ、達成したのは評価すべきでしょう。歴代大統領で公民権ネタは必ず潰され、政権の命取りにもなる根強い反発を受けるものであっただけに、ジョンソン大統領の粘り腰と議会掌握能力は称賛に値するものでしょう。因みに、「偉大な社会」は失敗に終わったのだ、とする見方があります。厳密にはその通り。しかし、やがてべトナム戦争に足を取られて行きますので、また、「偉大な社会」にも莫大な予算がかかりますので経費の面でもベトナム戦争にズッポリと足を取られて、偉大な社会は尻すぼみ、というのが実態でしょう。
<公開中の映画「LBJケネディの意志を継いだ男」を見てきました>
丁度現在、「LBJ ケネディの意志を継いだ男」(平成30年10/6~月末?)という映画が公開されています。今日見てきました。(ちなみに新宿シネマカリテは水曜日は1000円で見れます。)いやぁージョンソン氏を知る良い勉強になりました。映画のシーンからネタバレ過ぎない程度にお話します。
ジョンソン氏は、テキサス州の地方議員時代からの叩き上げの議会調整能力を有し、上院の院内総務という上院議員の取りまとめ役でもあった大物でした。ケネディ氏と民主党の大統領候補を争って敗退したものの、ケネディ大統領候補から副大統領候補に請われて副大統領になりました。周囲が大統領選のパートナーとしてバタ臭いジョンソン氏を選ぶことに反対する中、ケネディ氏は上院議員として院内総務ジョンソン氏の実力を知っており、敵に回すと一番面倒臭い男なのでいっそ取り込んでしまうことを選びました。(因みに、一応民主党内の大統領選候補として善戦していたので、断られるのを前提に建前上声をかけたところ、ジョンソン氏が予想に反して受諾したため実は引くに引けなくなった、という説もあります。)一方、ジョンソン氏は、党内の大統領候補選で対抗馬として戦った訳ですが、ケネディ氏の東部エスタブリッシュメンツそのものの良家のお坊ちゃん的なところが大嫌いだったようです。自分とケネディ氏を馬にたとえ、「自分は馬車馬でケネディ氏は馬術競技用の馬、本当に働くのはどっちだ?」と。反面、田舎出身叩き上げの自分にはないハンサムさ、若々しさ、清新溌剌さを持って米国の理想や夢を高らかに語れる姿を、そして何より圧倒的な人気、皆から愛されるケネディ氏を眩しいほどに羨ましく思い、悔しいが適わないと認めていたようです。ジョンソン氏陣営では「受けるべきではない!上院議員を辞めて副大統領なってもお飾りであって意味がない」と引き留めます。しかし、ジョンソン氏自身も苦悩の末、ケネディ氏がいかにも議会運営に弱そうであったので、ケネディ氏も自分を必要しており自分ならではの役割があるはずと信じて、副大統領になりました。
ケネディ政権に入ってみたものの、ケネディ氏が直接集めてきた閣僚、補佐官らスタッフは、みなハーバード大等出身の所謂「ベスト&ブライテスト」(ハルバースタム著)と呼ばれた超優秀な若き英才達で、議会運営のため議員の票集めなどの寝技が得意のジョンソン氏とは全く違うタイプでした。蚊帳の外に置かれる日々、ジョンソン氏は自分の与えられた正面で実力を発揮していきます。そして、不可避的にケネディ大統領の肝いりの課題、公民権問題に突き当たります。ケネディ大統領は公民権法案を議会に持ち出したいところでしたが、ジョンソン副大統領としては南部の反対派との仲介役として立ち回ったため、遂に政権が持ち出す際には副大統領には相談されずに発表されました。ところが、ケネディ大統領暗殺。憲法の規定に基づき、大統領継承順位ナンバー1の副大統領として、急遽ワシントンへ帰る飛行機の機内で就任宣誓をしました。さて、公民権法案問題に結論を出さねばなりません。基本的には黒人差別がまだ色濃く残る南部出身のジョンソン氏にあっては選挙地盤からして、自身の命取りにもなる法案だったにも関わらず、苦悩の末にケネディ前大統領の目指した公民権法案を継承する、いな、実現する松明を引き継ぎました。この辺りの経緯が映画に良く描かれておりました。大統領就任直後に、前大統領の集めた「ベスト&ブライテスト」と呼ばれた超エリート秀才閣僚・補佐官たちが、ジョンソン大統領についていくかどうか、特に公民権法案への取り組みを踏み絵にして値踏みをしていたのが印象的です。しかし、ジョンソン氏は苦悩の末、南部の大先輩議員たちを敢えて裏切ってまで、「公民権法案を成立させる!」「Let us continue!」と明確に演説したシーンには感動しました。ジョンソン大統領自身も、家族同様に親しくしている黒人料理人が宿泊や車の駐車やトイレすら、差別に会って大変危険な思いをしていることを踏まえ、実は公民権には義憤に駆られていたのでした。日本で言えば、昭和の自民党のバタ臭い大物議員的なイメージの人で、義理人情、地盤・看板・鞄(後援組織の充実度、知名度、選挙資金)的な剛腕とコネとネゴ(調整・交渉能力)の力を持って議会運営を進められる、真に力のある大統領だったといえるでしょう。(・・・内政はね。)
(スミマセン十分ネタバレですね。しかし一見価値のある映画です。ぜひご鑑賞を。)
<ウィルダフスキー氏の「Two presidencies」理論を参考に考察>
内政に強く高く評価されたものの、外交・安保に不得手で低く評価されたジョンソン大統領について考察するにあたり、「予算編成の政治学」という著作でも高名なアーロン・ウィルダフスキー氏が「Two Presidencies Theory(米大統領政権の2つの類型(下手な訳ですみません)論」という大変興味深い理論を提起しています。実は、ウィルダフスキー氏がこの理論を書いた1964年頃には、まだジョンソン大統領はまだ内政イケイケでベトナム問題もまだ本格介入していない状況だったのですが、1930年代後半からケネディ氏までの歴代大統領を引き合いに出して、概略以下のような理論を提起しました。
米国の大統領には、内政に関心を持って取り組む政権というバージョンと、外交・軍事に関心を持って取り組む政権と言うバージョンの2つの類型がある。ただし、昨今の歴代大統領を眺めてみるに、外交正面により力を入れる傾向である。これは、内政が議会で議論する手順を踏まねばならず、かつ関心を持つ団体からの圧力もあり、しかも政策を打つにも時間がかかることに比較すると、外交・軍事においては大統領の権限が非常に大きく、状況により議会にかける必要がなく、圧力団体もおらず、政策打つにもspeedyにできるからであろう。ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディの歴代大統領とも、内政ではあまり成果なく、むしろ外交・軍事正面で顕著な成果を出している。
あれ?歴代の皆さんは「内低外高」?では「内高外低」のジョンソン大統領には当てはまりませんね。しかし、この歴代大統領が外交・軍事に力を入れがちな理由のところが、私見ながら、ジョンソン氏の落ちた穴だったんじゃないかなと思います。ベトナム政策のような外交・軍事ネタには、公民権法案のような南部反対派のような関心団体は議会にも社会にもありませんし、必要あらばトンキン湾決議のように大統領権限で必要な処置がすぐに取れるのです。ジョンソン氏にあっては、持ち前の議会掌握能力を剛腕に発揮して、内政では寝技に持ち込んでやっとのことで成果を上げてきた彼にとっては、外交・軍事ほどこんなに楽なことはありません。国際政治、安全保障、戦略、危機管理等、予めの知識も経験もなかったジョンソン氏にとって、この楽勝正面が落とし穴だったのではないでしょうか。勿論、脇を固めていたのはベスト&ブライテストの面々。マクナマラ国防長官、ディーン・ラスク国務長官(日本で言えば外務大臣)、ジョージ・ポール国務次官、ウィリアム・バンディ国務次官補、マクジョージ・バンディ大統領補佐官(安全保障担当)、ウォルト・ロストー同次席補佐官、らの英才達です。彼らが細かいことは詰めに詰めてしっかりとやってくれるものだから、ベトナム政策において、ついついお山の大将的に自分の考えでまず結論を出してしまい、ケツは彼らが拭く形になったのではないでしょうか。
(実は、これは留学時代に、「ウィルドフスキーの理論に一番当てはまるのは誰か?」という課題を出された際の、私の論文ネタでした。英語論文構成能力に劣る私としては、何とか他のネイティブ学生とは全く違った案を出して、教授の「ほう、日本の将校はそう来たか」と+α点をくれるのではないか、というアイディアでの作案です。結果はAをもらえました。)

<デイヴィッド・ハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」を参考に>
この本は凄いですね。まさに米国のジャーナリズムの金字塔的な名著です。ベスト&ブライテストと呼ばれた米国で最も優秀でピカピカの若き超英才達は、新進気鋭のケネディ大統領に声をかけられて、皆新しい時代を我々の手で作るのだと意気に感じて参集してきました。途中でジョンソン政権になりましたが、こんな米国史上稀に見る英才達が参謀を務め補佐したにも拘らず、なぜベトナム戦争という泥沼にハマってしまったのか?という重いテーマを、多くの関係者へのインタビューを基に詳細に分析しています。その深い分析を、頭の悪い私が分かる言葉でザックリと表現すると、「当時の米国の『米国は強いのだ、やろうと思えば実現できるのだ。我々が世界のリーダーなのだ。』的な時代の興奮の中、自意識過剰な英才達が判断を大きく誤った。折悪しく、この英才達に劣等感を持つ昭和の政治家ジョンソン氏が大統領だった」というというところでしょうか。英才達は「我々が間違うわけがない」と思って道を踏み外し、ジョンソンは英才達に「こいつらには頭じゃかなわない」という劣等感もあって細部は鵜呑みにするも、意思決定は外交・軍事オンチなジョンソン氏が握っていたのが運のツキだったのかもしれません。(実際の本の記述は、詳細にして深甚なる内容なので、決して上記のようなテキトーなものではありませんので、誤解のないように。)
<それでもなぜベトナム本格介入に舵を切ったのか?>
ここまで考察したものの、結局この疑問は明確ではありません。端的には1965年7月に地上戦闘部隊を大規模派遣に踏み切りますが、なぜそっちに舵を切ったのか?或いは、あまりの国民的反発とベトナム戦争の行き詰まりから大統領選不出馬の発表するその直前まで、ベトナム政策は不退転の方針を取り続けたのはなぜか?
参考まで、ジョンソン氏自身の手になる「ジョンソン回顧録」でのご本人の弁から概略申しますと以下の通りです。
引き返せる時点はあったのだが、自分の先達アイゼンハワー・ケネディ大統領が引いた路線から引き返せなかった。それは、共産主義の膨張に対して引き返した張本人・臆病者として、墓場まで暴かれて批判されるのが耐えられなかった。
歴史の結果を知っている我々があまり偉そうなことを後知恵で言うのはよくありませんが・・・。やはり愚かですね。しかし、マクナマラ氏の教訓にある「相手に共感して考えよ」からすれば、米国の大戦後の歴史をひも解いてみれば、共感できるのかもしれません。大戦後、ポツダム体制なんてすぐに冷戦体制がとってかわり、米国が大人の対応をしている隙にソ連には東ヨーロッパを共産主義化され衛星国化。中国も蒋介石が代表だったはずが、中国共産党が中国本土を取ってしまった。アチソン国務長官が「防衛線は日本までかな」、なんて言ったら、じゃあ朝鮮半島は入ってないわけね、と北朝鮮が韓国に南進し、朝鮮戦争になった。これに中国が参戦しだした。すわ、米中対決か?と思ったら、それは米国が避けた。米国にマッカーシズムという反共ヒステリーの嵐が巻き起こり、トルーマンすら臆病者扱いされた。・・・こうしたことがジョンソン氏の頭にあったのでしょう。
最後に、TVの都市伝説のような話ですが、ケネディ大統領未亡人ジャクリーン女氏によれば、「ケネディ大統領暗殺の犯人はジョンソンだ」とのこと。ずっと嫌いだったようですし、ケネディ大統領暗殺の直後、まだ数時間しか経ってないのに、無理くりワシントンに帰る飛行機に乗せられ、ジョンソン氏の大統領就任宣誓に立会させられたのは、忘れ得ぬ経験だったでしょうな。服も血が付いたままのを敢えて着替えなかったといいます。また、ジョンソンに仕えた顧問弁護士も同様の発言(真犯人はジョンソン説)があるそうです。もしそうだったら、このジョンソン氏というオヤジは相当なタヌキですね。
以上、、ジョンソン氏考でした。
(了)


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前編では主としてマクナマラ氏の視点から、ジョンソン大統領のベトナム戦争を中心に考察しました。食えない親父でしたね。しかし、ベトナム政策のみでジョンソン大統領を評価するのも片手落ちなので、後編では内政面では大きな成果を上げている点を踏まえ、内政で高い評価を得た反面、外交・安保が命取りとなる程の低評価となったジョンソン大統領について、予算編成等で高名な政治学者ウィルダフスキー氏の「The Two Presidencies」という論文が丁度うまく当てはまるので、考察してみたいと思います。また、参考まで、ハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」及び「ジョンソン回顧録」にも言及して、極めて複雑なジョンソン氏のベトナム政策の片鱗をつかむべく考察を試みます。

ケネディ大統領暗殺から間もなくワシントンに向かう機内で大統領就任宣誓(ジョンソン氏の右はケネディ大統領夫人ジャッキー
<ジョンソン大統領の内政における評価>
我々日本人が米国大統領のニュースを耳目にする場合、その多くは外交・安全保障や貿易などの国際経済正面だと思います。中々、米国内の内政政策にはニュースも含め関心が向かないものです。しかし、ジョンソン大統領の内政正面での成果は、あぁ聞いたことがある、と思い当たる節があるほど、世界史等の教科書に載っているほどの素晴らしいものがあります。
ジョンソン氏は、「Great Society(偉大な社会)」の実現を旗頭に、黒人差別の本格的撤廃を意味する公民権法を成立させ、「War on Poverty(貧困との闘い)」を提唱して貧困層(結局は黒人が対象でしたが・・・)へ公的援助の手を差し伸べたほか、社会福祉、社会保障、医療、教育などこの種の法案を次々に成立させ、歴代大統領の中でもかなり斬新な改革を達成しています。とりわけ、リンカーン時代に奴隷解放までいったものの、その後100年黒人差別政策は文化としても法制度としても米国に根付いていたこの問題に、本格的にメスを入れ、達成したのは評価すべきでしょう。歴代大統領で公民権ネタは必ず潰され、政権の命取りにもなる根強い反発を受けるものであっただけに、ジョンソン大統領の粘り腰と議会掌握能力は称賛に値するものでしょう。因みに、「偉大な社会」は失敗に終わったのだ、とする見方があります。厳密にはその通り。しかし、やがてべトナム戦争に足を取られて行きますので、また、「偉大な社会」にも莫大な予算がかかりますので経費の面でもベトナム戦争にズッポリと足を取られて、偉大な社会は尻すぼみ、というのが実態でしょう。
<公開中の映画「LBJケネディの意志を継いだ男」を見てきました>
丁度現在、「LBJ ケネディの意志を継いだ男」(平成30年10/6~月末?)という映画が公開されています。今日見てきました。(ちなみに新宿シネマカリテは水曜日は1000円で見れます。)いやぁージョンソン氏を知る良い勉強になりました。映画のシーンからネタバレ過ぎない程度にお話します。
ジョンソン氏は、テキサス州の地方議員時代からの叩き上げの議会調整能力を有し、上院の院内総務という上院議員の取りまとめ役でもあった大物でした。ケネディ氏と民主党の大統領候補を争って敗退したものの、ケネディ大統領候補から副大統領候補に請われて副大統領になりました。周囲が大統領選のパートナーとしてバタ臭いジョンソン氏を選ぶことに反対する中、ケネディ氏は上院議員として院内総務ジョンソン氏の実力を知っており、敵に回すと一番面倒臭い男なのでいっそ取り込んでしまうことを選びました。(因みに、一応民主党内の大統領選候補として善戦していたので、断られるのを前提に建前上声をかけたところ、ジョンソン氏が予想に反して受諾したため実は引くに引けなくなった、という説もあります。)一方、ジョンソン氏は、党内の大統領候補選で対抗馬として戦った訳ですが、ケネディ氏の東部エスタブリッシュメンツそのものの良家のお坊ちゃん的なところが大嫌いだったようです。自分とケネディ氏を馬にたとえ、「自分は馬車馬でケネディ氏は馬術競技用の馬、本当に働くのはどっちだ?」と。反面、田舎出身叩き上げの自分にはないハンサムさ、若々しさ、清新溌剌さを持って米国の理想や夢を高らかに語れる姿を、そして何より圧倒的な人気、皆から愛されるケネディ氏を眩しいほどに羨ましく思い、悔しいが適わないと認めていたようです。ジョンソン氏陣営では「受けるべきではない!上院議員を辞めて副大統領なってもお飾りであって意味がない」と引き留めます。しかし、ジョンソン氏自身も苦悩の末、ケネディ氏がいかにも議会運営に弱そうであったので、ケネディ氏も自分を必要しており自分ならではの役割があるはずと信じて、副大統領になりました。
ケネディ政権に入ってみたものの、ケネディ氏が直接集めてきた閣僚、補佐官らスタッフは、みなハーバード大等出身の所謂「ベスト&ブライテスト」(ハルバースタム著)と呼ばれた超優秀な若き英才達で、議会運営のため議員の票集めなどの寝技が得意のジョンソン氏とは全く違うタイプでした。蚊帳の外に置かれる日々、ジョンソン氏は自分の与えられた正面で実力を発揮していきます。そして、不可避的にケネディ大統領の肝いりの課題、公民権問題に突き当たります。ケネディ大統領は公民権法案を議会に持ち出したいところでしたが、ジョンソン副大統領としては南部の反対派との仲介役として立ち回ったため、遂に政権が持ち出す際には副大統領には相談されずに発表されました。ところが、ケネディ大統領暗殺。憲法の規定に基づき、大統領継承順位ナンバー1の副大統領として、急遽ワシントンへ帰る飛行機の機内で就任宣誓をしました。さて、公民権法案問題に結論を出さねばなりません。基本的には黒人差別がまだ色濃く残る南部出身のジョンソン氏にあっては選挙地盤からして、自身の命取りにもなる法案だったにも関わらず、苦悩の末にケネディ前大統領の目指した公民権法案を継承する、いな、実現する松明を引き継ぎました。この辺りの経緯が映画に良く描かれておりました。大統領就任直後に、前大統領の集めた「ベスト&ブライテスト」と呼ばれた超エリート秀才閣僚・補佐官たちが、ジョンソン大統領についていくかどうか、特に公民権法案への取り組みを踏み絵にして値踏みをしていたのが印象的です。しかし、ジョンソン氏は苦悩の末、南部の大先輩議員たちを敢えて裏切ってまで、「公民権法案を成立させる!」「Let us continue!」と明確に演説したシーンには感動しました。ジョンソン大統領自身も、家族同様に親しくしている黒人料理人が宿泊や車の駐車やトイレすら、差別に会って大変危険な思いをしていることを踏まえ、実は公民権には義憤に駆られていたのでした。日本で言えば、昭和の自民党のバタ臭い大物議員的なイメージの人で、義理人情、地盤・看板・鞄(後援組織の充実度、知名度、選挙資金)的な剛腕とコネとネゴ(調整・交渉能力)の力を持って議会運営を進められる、真に力のある大統領だったといえるでしょう。(・・・内政はね。)
(スミマセン十分ネタバレですね。しかし一見価値のある映画です。ぜひご鑑賞を。)
<ウィルダフスキー氏の「Two presidencies」理論を参考に考察>
内政に強く高く評価されたものの、外交・安保に不得手で低く評価されたジョンソン大統領について考察するにあたり、「予算編成の政治学」という著作でも高名なアーロン・ウィルダフスキー氏が「Two Presidencies Theory(米大統領政権の2つの類型(下手な訳ですみません)論」という大変興味深い理論を提起しています。実は、ウィルダフスキー氏がこの理論を書いた1964年頃には、まだジョンソン大統領はまだ内政イケイケでベトナム問題もまだ本格介入していない状況だったのですが、1930年代後半からケネディ氏までの歴代大統領を引き合いに出して、概略以下のような理論を提起しました。
米国の大統領には、内政に関心を持って取り組む政権というバージョンと、外交・軍事に関心を持って取り組む政権と言うバージョンの2つの類型がある。ただし、昨今の歴代大統領を眺めてみるに、外交正面により力を入れる傾向である。これは、内政が議会で議論する手順を踏まねばならず、かつ関心を持つ団体からの圧力もあり、しかも政策を打つにも時間がかかることに比較すると、外交・軍事においては大統領の権限が非常に大きく、状況により議会にかける必要がなく、圧力団体もおらず、政策打つにもspeedyにできるからであろう。ルーズベルト、トルーマン、アイゼンハワー、ケネディの歴代大統領とも、内政ではあまり成果なく、むしろ外交・軍事正面で顕著な成果を出している。
あれ?歴代の皆さんは「内低外高」?では「内高外低」のジョンソン大統領には当てはまりませんね。しかし、この歴代大統領が外交・軍事に力を入れがちな理由のところが、私見ながら、ジョンソン氏の落ちた穴だったんじゃないかなと思います。ベトナム政策のような外交・軍事ネタには、公民権法案のような南部反対派のような関心団体は議会にも社会にもありませんし、必要あらばトンキン湾決議のように大統領権限で必要な処置がすぐに取れるのです。ジョンソン氏にあっては、持ち前の議会掌握能力を剛腕に発揮して、内政では寝技に持ち込んでやっとのことで成果を上げてきた彼にとっては、外交・軍事ほどこんなに楽なことはありません。国際政治、安全保障、戦略、危機管理等、予めの知識も経験もなかったジョンソン氏にとって、この楽勝正面が落とし穴だったのではないでしょうか。勿論、脇を固めていたのはベスト&ブライテストの面々。マクナマラ国防長官、ディーン・ラスク国務長官(日本で言えば外務大臣)、ジョージ・ポール国務次官、ウィリアム・バンディ国務次官補、マクジョージ・バンディ大統領補佐官(安全保障担当)、ウォルト・ロストー同次席補佐官、らの英才達です。彼らが細かいことは詰めに詰めてしっかりとやってくれるものだから、ベトナム政策において、ついついお山の大将的に自分の考えでまず結論を出してしまい、ケツは彼らが拭く形になったのではないでしょうか。
(実は、これは留学時代に、「ウィルドフスキーの理論に一番当てはまるのは誰か?」という課題を出された際の、私の論文ネタでした。英語論文構成能力に劣る私としては、何とか他のネイティブ学生とは全く違った案を出して、教授の「ほう、日本の将校はそう来たか」と+α点をくれるのではないか、というアイディアでの作案です。結果はAをもらえました。)

<デイヴィッド・ハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」を参考に>
この本は凄いですね。まさに米国のジャーナリズムの金字塔的な名著です。ベスト&ブライテストと呼ばれた米国で最も優秀でピカピカの若き超英才達は、新進気鋭のケネディ大統領に声をかけられて、皆新しい時代を我々の手で作るのだと意気に感じて参集してきました。途中でジョンソン政権になりましたが、こんな米国史上稀に見る英才達が参謀を務め補佐したにも拘らず、なぜベトナム戦争という泥沼にハマってしまったのか?という重いテーマを、多くの関係者へのインタビューを基に詳細に分析しています。その深い分析を、頭の悪い私が分かる言葉でザックリと表現すると、「当時の米国の『米国は強いのだ、やろうと思えば実現できるのだ。我々が世界のリーダーなのだ。』的な時代の興奮の中、自意識過剰な英才達が判断を大きく誤った。折悪しく、この英才達に劣等感を持つ昭和の政治家ジョンソン氏が大統領だった」というというところでしょうか。英才達は「我々が間違うわけがない」と思って道を踏み外し、ジョンソンは英才達に「こいつらには頭じゃかなわない」という劣等感もあって細部は鵜呑みにするも、意思決定は外交・軍事オンチなジョンソン氏が握っていたのが運のツキだったのかもしれません。(実際の本の記述は、詳細にして深甚なる内容なので、決して上記のようなテキトーなものではありませんので、誤解のないように。)
<それでもなぜベトナム本格介入に舵を切ったのか?>
ここまで考察したものの、結局この疑問は明確ではありません。端的には1965年7月に地上戦闘部隊を大規模派遣に踏み切りますが、なぜそっちに舵を切ったのか?或いは、あまりの国民的反発とベトナム戦争の行き詰まりから大統領選不出馬の発表するその直前まで、ベトナム政策は不退転の方針を取り続けたのはなぜか?
参考まで、ジョンソン氏自身の手になる「ジョンソン回顧録」でのご本人の弁から概略申しますと以下の通りです。
引き返せる時点はあったのだが、自分の先達アイゼンハワー・ケネディ大統領が引いた路線から引き返せなかった。それは、共産主義の膨張に対して引き返した張本人・臆病者として、墓場まで暴かれて批判されるのが耐えられなかった。
歴史の結果を知っている我々があまり偉そうなことを後知恵で言うのはよくありませんが・・・。やはり愚かですね。しかし、マクナマラ氏の教訓にある「相手に共感して考えよ」からすれば、米国の大戦後の歴史をひも解いてみれば、共感できるのかもしれません。大戦後、ポツダム体制なんてすぐに冷戦体制がとってかわり、米国が大人の対応をしている隙にソ連には東ヨーロッパを共産主義化され衛星国化。中国も蒋介石が代表だったはずが、中国共産党が中国本土を取ってしまった。アチソン国務長官が「防衛線は日本までかな」、なんて言ったら、じゃあ朝鮮半島は入ってないわけね、と北朝鮮が韓国に南進し、朝鮮戦争になった。これに中国が参戦しだした。すわ、米中対決か?と思ったら、それは米国が避けた。米国にマッカーシズムという反共ヒステリーの嵐が巻き起こり、トルーマンすら臆病者扱いされた。・・・こうしたことがジョンソン氏の頭にあったのでしょう。
最後に、TVの都市伝説のような話ですが、ケネディ大統領未亡人ジャクリーン女氏によれば、「ケネディ大統領暗殺の犯人はジョンソンだ」とのこと。ずっと嫌いだったようですし、ケネディ大統領暗殺の直後、まだ数時間しか経ってないのに、無理くりワシントンに帰る飛行機に乗せられ、ジョンソン氏の大統領就任宣誓に立会させられたのは、忘れ得ぬ経験だったでしょうな。服も血が付いたままのを敢えて着替えなかったといいます。また、ジョンソンに仕えた顧問弁護士も同様の発言(真犯人はジョンソン説)があるそうです。もしそうだったら、このジョンソン氏というオヤジは相当なタヌキですね。
以上、、ジョンソン氏考でした。
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