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2020/06/14

追悼横田滋さん:拉致被害者家族に見る日本人のカガミ

 拉致被害者横田めぐみさんのお父様、横田滋さんがご逝去されました。めぐみさんの帰国を一日千秋の思いで待ちつつも遂に果たせず、ご高齢ゆえの衰えには抗えず、ご家族に見守られる中で息を引き取られたとのこと。心から哀悼の誠を捧げさせていただきます。
 拉致被害者の家族として、奥様とともに老骨に鞭打って不屈の闘志で永年に亘って拉致問題で戦ってこられ、それでいて苦しく辛い場面に何度合わされようとも、冷静さを失なったり言葉を荒げたりすることなく、常に穏やかな表情と言動でおられた姿は、我々日本人の心に深く刻まれることでしょう。日本人の鑑(カガミ)だと思います。
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在りし日の横田滋さん(2020年6月5日付朝日新聞デジタル「横田めぐみさんの父、滋さん死去 家族会の前代表87歳」より)

 2002年の日朝首脳会談、小泉首相の北朝鮮訪問と、これに続く一部の拉致被害者の帰国は誠に衝撃的でした。硬い表情で握手する小泉首相と金正日、そして小泉首相が接見前の控室にて盗聴されているのを承知で「拉致について金正日が謝罪しないなら席を立つ」 と言って、拉致についての謝罪をさせたのは歴史的な快挙でした。
 当時、丁度日米共同訓練中でしたが、米軍から「もしアメリカ人が拉致被害を受けていたなんて分かったら、アメリカでは問答無用で戦争になる。なぜ日本人は怒らないのだ?」と本気で迫られたのを覚えています。米国ならそうでしょうね。でも日本は、ハラワタが煮えくり返るくらい腹が立ったとしても、それが理由で北朝鮮に戦争をしかけるっていうオプションは、初めからありませんよ。日本人の思考としては、怒りをグッと呑み込んで、「粘り強い外交交渉で・・・」というのが常識的です。しかし、北朝鮮という常識の通用しない国が相手ですから、並大抵な交渉では一向に進みません。全ては北朝鮮の責任であって、日本が譲歩する要素は全くない。本当は「テメー、この馬鹿野郎!」と絶叫して掴みかかりたい。しかし、それで決裂して拉致被害者が日本に帰ってこれなくなったら、殺されてしまったら、・・・。激怒したい衝動を抑えて、耐え難きを耐えて、敢えてその衝動を呑み込んで、穏やかな表情で相対して、言葉を選んで穏やかな口調で、それでいて粘り強く、相手との交渉で打開の道を探る。それが日本人です。

 横田滋さんと奥様早紀江さんのお二人の歩んできた活動で、何度もそんな光景を目にしました。
 1977年にめぐみさんが拉致されて以来、日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認めるまで、25年間も横田さんをはじめ被害者家族の皆さんは「北朝鮮による拉致である」と訴えてきました。活動当初は、日本政府もマスコミも全く信じてくれなかった。やがて、拉致問題が政治的あるいはニュースとして取り上げられるようになってからも、長い間政治家やマスコミは一過性のネタとして拉致問題を利用する程度で、北朝鮮との関係を悪化させたくないのか、真剣に取り組んではくれなかった。そして、やっとのことで、2002年に日朝首脳会談を迎える。一部の拉致被害者が帰国するという夢のような結果まで実を結んだのも束の間、北朝鮮は一時帰国させたつもりが日本から帰らないことになったので、ここでまた決裂。他の拉致被害者についてはウヤムヤにされてしまう。横田さんにとっては、待ちに待っためぐみさんの帰国がすぐそこまで来ていたかのうような感じであったろうに、ここで引き裂かれてしまう。さぞ、お辛かったでしょう。あれから更に17年の月日が流れ、横田さんはこの間何回か、交渉の目玉として表舞台に出ました。めぐみさんは死んだのだ、と北朝鮮から伝えられ、めぐみさんの娘が平壌で会いたいと言っている、と北朝鮮から招かれたこともあった。本当はめぐみさんとよく似たその娘に、さぞ会ってみたかったろうに、横田さんは敢えて行かなかった。会いたい人情よりも、日本政府としての交渉全体のことを考えて。さぞお辛かったろうと思います。(別の機会にモンゴルで会えた。) こうした中、横田さんは常に穏やかな表情と穏やかな言動で、しかし粘り強く、拉致被害者全員の帰国を訴えていました。心の内はさぞ燃え滾るような怒りに打ち震えていたことでしょう。しかしグッと堪えて、穏やかな表情をされていたのだろうと思います。貴方は日本人の鑑〈カガミ〉だと、つくづく思います。

 横田さん、さぞ残念でしょう。もはや拉致被害者のご両親世代はほとんど残っておられない時代になりました。拉致被害者もご兄弟もそれなりのお年になっています。横田さんのご遺志は、我々日本人が継がないといけません。その思いを深くしました。

(了)

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