マクナマラの教訓⑮: 数値的データ信奉の陥弊
<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑮補足説明: 本人が語らなかったこと -数値的データ信奉の陥弊->
前回(国民への説明責任)に引き続き、インタビューを主体としたこの映画の中で本人が語らなかったこと、特に戦争指導上の責任について、補足説明させてください。とりわけ、マクナマラ氏が自分の仕事の流儀として信奉した数値的データに基づく統計学的分析手法について、その陥った問題点にスポットライトを当ててみたいと思います。勿論、国防長官当時にスポットライトを当てますが、恐らくは同氏の生涯を通じて「数値的データに基づく統計学的分析」を自身の仕事の流儀としていたものです。
同氏の国防長官以前の経緯については、このブログ「マクナマラの教訓」シリーズの④⑤⑥で記述した通りです。カルフォルニア大学バークレー校で大学時代を過ごし、奨学生制度の賞を取ってスタンフォード大学大学院のMBAに学んだ同氏の専門分野が数値的データに基づく統計学的分析であり、第2次大戦中はその専門分野を駆使して戦略爆撃に貢献します。戦後は、スタンフォードの仲間たちと組んでフォード社に自らを売り込み、仲間たちごと入社。フォード社でも、数値的データに基づく統計学的分析手法を駆使して傾いていた会社の業績をV字回復させ、遂には社長に大抜擢されました。と思ったら、社長在籍わずか5週間にして新生ケネディ政権の国防長官にサプライズ人事で大抜擢され、国防長官に鳴り物入りで就任しました。当時当代随一の政治評論家であったウォルター・リップマンから「過去最高の国防長官、初めて軍部に対する完全なシビリアンコントロールを敷いた男、IBMコンピュータを脳に搭載した男」等と褒めちぎられた程です。
このサクセスストーリでもわかるように、マクナマラ氏にとって数値的データに基づく統計学的分析手法は最大の武器であったわけですが、実はこれこそが同氏にとって功もあれば罪でもある、薬にも毒にもなる「諸刃の剣」であったのです。

その最たるものが、今回お話しする「ボディカウント(body count)」というものです。これは軍事作戦の成果を測る指標として各部隊に報告させた数値的データで、早い話が敵の死体の数です。敵の死体を増大させ、我が損害は局限する、というバカバカしいくらい単純な数値的データなわけです。
MIT Technology Reviewにケネス・キューキャー氏とビクトール・メイヤー=ショーンバーガー氏の共著で「The Dictatorship of Data」(https://www.technologyreview.com/s/514591/the-dictatorship-of-data/)という記事にその「罪」ないし「毒」の部分が分かり易くまとめられていたので、以下つたない要約を試みます。
*********以下、前述の「The Dictatorship of Data」の要約
マクナマラ氏は、1960年代初期、ベトナムの緊張が高まってきた時にベトナムに関し可能か限りの全てのデータを集めさせた。同氏は、データの中にこそ真実があり、統計学的分析のみが意思決定者(大統領)に対して複雑な状況を理解させしむる、と信じていた。ベトナムにおける紛争の段階的拡大と派兵拡大につれ、この戦争は領地取得のための戦いではなく「意思」の戦いであること明白になってきた。米国にとり、ベトコンを交渉のテーブルにつかせるために叩きのめすのが戦略であった。その成果を測る指標として「ボディカウント」という敵の死体の数値データを報告させることとした。このボディカウントは毎日報告され、新聞にも載せた。しかし、確かに成果は数値で可視化して分かり易いかもしれないが、非倫理的・非人道的であり批判の的にもなった。同氏にとっては、このデータをもってすれば、現地で何が起きていて成果はどうなのか明確に分かる、と信じて疑わなかった。
1977年(ベトナム戦争終結の2年後)、ダグラス・キンナードが「The War Managers」を出版し、米将軍のたった2%しかボディカウントが成果を測る指標になると思っていなかったことを明らかにした。彼によれば、ボディカウントは“A fake—totally worthless,”=「まやかし、完全に無意味」だったと言う。ある将軍の言によれば、「ボディカウントの数値は基礎の段階から多くの部隊によってひどく誇張された数値が報告された。それは、マクナマラ国防長官のような人々によって信じ難いほどの関心を集めるものだったからだ。」ということだ。
ベトナム戦争間で見られた数値の使用、濫用、そして誤用は、情報の限界を痛感させる教訓だ。基本的にデータは質がお粗末になり得るものであり、偏ったものになり得るものであり、分析を誤らせミスリードさせ得るものなのだ。利より害がむしろ多い。これを「データの独裁」と言う。ある部分では、ボディカウントがベトナム戦争をエスカレートさせたとも言える。その証左でもあるのが、マクナマラ氏のこの苦しい言い訳だ。「(戦争における)人間の状況の想像しうる複雑性というものでは、グラフの線やチャートのパーセンテージ、バランスシートの数字等が示すものを減じることはできなのだ。全ての現実は説明しうる。数値化できるものを数値化しないことは、理屈付けを満足させることはできない。(やはり数値的データをもって説明しなければ理屈付けはできない。」
*************要約終わり
、
また、社会学者のダニエル・ヤンケロビッチ氏は、「マクナマラの誤謬(The McNamara fallacy)」と題して、マクナマラ氏の陥ったデータ信奉について非常に手厳しく批評しています。 (日本語訳はブログ主です。)
(https://expertprogrammanagement.com/2017/07/the-mcnamara-fallacy/)
1. 測定容易なものは何でも測定せよ。
2. 容易には測定できないものは無視せよ。
3. 容易には測定できないものは大事なものではなかったと思え。
4. 容易には測定できないものはそもそも存在しないのだと思え。
マクナマラ氏も、こんな言い方はしていないと思いますが、こう酷評されても仕方のないくらいの信奉ぶりだったのでしょう。
結局、数値的データというものは、分析のための有用なツールかも知れませんが、数値的データが一人走りしてしまっては、正確でない、誤った、偏った、或いは改ざんしたものであっては適正・適切な分析の資にはならないのです。もし至当に分析され、至当な政策提言ができたとしたら、それは数値的データが素晴らしいのではなくて、単に正しく十分なinformationがintelligenceとして適切に使用され、適切な分析ができた、意思決定者の状況判断に使用してもらった、というだけのことなのです。また、データ信奉そのものも勿論ですが、日本人的には(もしかしたら全世界的にも)、現地の部隊に成果の指標として死体の数を数えさせ、その数値が毎日の新聞に載っていて、これを国防長官が作戦の進捗の成果の指標としてグラフで示して国民に説明する、この絵柄が耐えられない程に非倫理的・非人道的ですよね。周囲の優秀な官僚たちもおかしいと思わなかったんですかね。どうせ指標にするなら、国民世論に支持される政府の姿を目標にして、成果として南ベトナム政府の支持率にするとか、何か他の指標があったのではないかと思います。毎日報告を義務付けられる現地の兵隊さんの身になって、或いは毎日テレビのニュースで死体の数を聞かされるお茶の間の国民の身になって考えたら分かるのではないかと思うのですが・・・。
マクナマラ氏ともあろうものが・・・。自分で教訓として語っているではありませんか。fog of war、戦争という複雑怪奇な変数のある深い霧のかかった社会現象を人間なんぞが霧を晴らせるわけがないのですよ。いわんや、ボディカウントなんていう単純な指標で現地をクリアに見られると思ったというところがアウトですよ。まさに、戦争の霧、fog of warって含蓄がありますね。
(了)


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前回(国民への説明責任)に引き続き、インタビューを主体としたこの映画の中で本人が語らなかったこと、特に戦争指導上の責任について、補足説明させてください。とりわけ、マクナマラ氏が自分の仕事の流儀として信奉した数値的データに基づく統計学的分析手法について、その陥った問題点にスポットライトを当ててみたいと思います。勿論、国防長官当時にスポットライトを当てますが、恐らくは同氏の生涯を通じて「数値的データに基づく統計学的分析」を自身の仕事の流儀としていたものです。
同氏の国防長官以前の経緯については、このブログ「マクナマラの教訓」シリーズの④⑤⑥で記述した通りです。カルフォルニア大学バークレー校で大学時代を過ごし、奨学生制度の賞を取ってスタンフォード大学大学院のMBAに学んだ同氏の専門分野が数値的データに基づく統計学的分析であり、第2次大戦中はその専門分野を駆使して戦略爆撃に貢献します。戦後は、スタンフォードの仲間たちと組んでフォード社に自らを売り込み、仲間たちごと入社。フォード社でも、数値的データに基づく統計学的分析手法を駆使して傾いていた会社の業績をV字回復させ、遂には社長に大抜擢されました。と思ったら、社長在籍わずか5週間にして新生ケネディ政権の国防長官にサプライズ人事で大抜擢され、国防長官に鳴り物入りで就任しました。当時当代随一の政治評論家であったウォルター・リップマンから「過去最高の国防長官、初めて軍部に対する完全なシビリアンコントロールを敷いた男、IBMコンピュータを脳に搭載した男」等と褒めちぎられた程です。
このサクセスストーリでもわかるように、マクナマラ氏にとって数値的データに基づく統計学的分析手法は最大の武器であったわけですが、実はこれこそが同氏にとって功もあれば罪でもある、薬にも毒にもなる「諸刃の剣」であったのです。

その最たるものが、今回お話しする「ボディカウント(body count)」というものです。これは軍事作戦の成果を測る指標として各部隊に報告させた数値的データで、早い話が敵の死体の数です。敵の死体を増大させ、我が損害は局限する、というバカバカしいくらい単純な数値的データなわけです。
MIT Technology Reviewにケネス・キューキャー氏とビクトール・メイヤー=ショーンバーガー氏の共著で「The Dictatorship of Data」(https://www.technologyreview.com/s/514591/the-dictatorship-of-data/)という記事にその「罪」ないし「毒」の部分が分かり易くまとめられていたので、以下つたない要約を試みます。
*********以下、前述の「The Dictatorship of Data」の要約
マクナマラ氏は、1960年代初期、ベトナムの緊張が高まってきた時にベトナムに関し可能か限りの全てのデータを集めさせた。同氏は、データの中にこそ真実があり、統計学的分析のみが意思決定者(大統領)に対して複雑な状況を理解させしむる、と信じていた。ベトナムにおける紛争の段階的拡大と派兵拡大につれ、この戦争は領地取得のための戦いではなく「意思」の戦いであること明白になってきた。米国にとり、ベトコンを交渉のテーブルにつかせるために叩きのめすのが戦略であった。その成果を測る指標として「ボディカウント」という敵の死体の数値データを報告させることとした。このボディカウントは毎日報告され、新聞にも載せた。しかし、確かに成果は数値で可視化して分かり易いかもしれないが、非倫理的・非人道的であり批判の的にもなった。同氏にとっては、このデータをもってすれば、現地で何が起きていて成果はどうなのか明確に分かる、と信じて疑わなかった。
1977年(ベトナム戦争終結の2年後)、ダグラス・キンナードが「The War Managers」を出版し、米将軍のたった2%しかボディカウントが成果を測る指標になると思っていなかったことを明らかにした。彼によれば、ボディカウントは“A fake—totally worthless,”=「まやかし、完全に無意味」だったと言う。ある将軍の言によれば、「ボディカウントの数値は基礎の段階から多くの部隊によってひどく誇張された数値が報告された。それは、マクナマラ国防長官のような人々によって信じ難いほどの関心を集めるものだったからだ。」ということだ。
ベトナム戦争間で見られた数値の使用、濫用、そして誤用は、情報の限界を痛感させる教訓だ。基本的にデータは質がお粗末になり得るものであり、偏ったものになり得るものであり、分析を誤らせミスリードさせ得るものなのだ。利より害がむしろ多い。これを「データの独裁」と言う。ある部分では、ボディカウントがベトナム戦争をエスカレートさせたとも言える。その証左でもあるのが、マクナマラ氏のこの苦しい言い訳だ。「(戦争における)人間の状況の想像しうる複雑性というものでは、グラフの線やチャートのパーセンテージ、バランスシートの数字等が示すものを減じることはできなのだ。全ての現実は説明しうる。数値化できるものを数値化しないことは、理屈付けを満足させることはできない。(やはり数値的データをもって説明しなければ理屈付けはできない。」
*************要約終わり
、
また、社会学者のダニエル・ヤンケロビッチ氏は、「マクナマラの誤謬(The McNamara fallacy)」と題して、マクナマラ氏の陥ったデータ信奉について非常に手厳しく批評しています。 (日本語訳はブログ主です。)
(https://expertprogrammanagement.com/2017/07/the-mcnamara-fallacy/)
1. 測定容易なものは何でも測定せよ。
2. 容易には測定できないものは無視せよ。
3. 容易には測定できないものは大事なものではなかったと思え。
4. 容易には測定できないものはそもそも存在しないのだと思え。
マクナマラ氏も、こんな言い方はしていないと思いますが、こう酷評されても仕方のないくらいの信奉ぶりだったのでしょう。
結局、数値的データというものは、分析のための有用なツールかも知れませんが、数値的データが一人走りしてしまっては、正確でない、誤った、偏った、或いは改ざんしたものであっては適正・適切な分析の資にはならないのです。もし至当に分析され、至当な政策提言ができたとしたら、それは数値的データが素晴らしいのではなくて、単に正しく十分なinformationがintelligenceとして適切に使用され、適切な分析ができた、意思決定者の状況判断に使用してもらった、というだけのことなのです。また、データ信奉そのものも勿論ですが、日本人的には(もしかしたら全世界的にも)、現地の部隊に成果の指標として死体の数を数えさせ、その数値が毎日の新聞に載っていて、これを国防長官が作戦の進捗の成果の指標としてグラフで示して国民に説明する、この絵柄が耐えられない程に非倫理的・非人道的ですよね。周囲の優秀な官僚たちもおかしいと思わなかったんですかね。どうせ指標にするなら、国民世論に支持される政府の姿を目標にして、成果として南ベトナム政府の支持率にするとか、何か他の指標があったのではないかと思います。毎日報告を義務付けられる現地の兵隊さんの身になって、或いは毎日テレビのニュースで死体の数を聞かされるお茶の間の国民の身になって考えたら分かるのではないかと思うのですが・・・。
マクナマラ氏ともあろうものが・・・。自分で教訓として語っているではありませんか。fog of war、戦争という複雑怪奇な変数のある深い霧のかかった社会現象を人間なんぞが霧を晴らせるわけがないのですよ。いわんや、ボディカウントなんていう単純な指標で現地をクリアに見られると思ったというところがアウトですよ。まさに、戦争の霧、fog of warって含蓄がありますね。
(了)


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