英雄逝去: 韓国を救った師団長の突撃
ちょっくら多忙で2週間ほどブログを書く時間がありませんでした、スミマセン。
2020年7月10日(金)、朝鮮戦争における韓国の救国の英雄、白善燁(ペク・サンヤプ)大将が99歳のご長寿にて静かにご逝去されました。日本ではほとんどニュースになっていませんが、本当に韓国にとって救国の英雄でした。文在寅韓国大統領は、自らの偏狭な考えから白将軍を「親日の売国奴」と見なして生前から冷遇し、ご逝去に際して葬儀や埋葬も冷遇。悲しい話です。実は防大生の頃、ご本人にお会いしたことがあります。豪傑タイプではなく、冷静冷徹な判断力と燃えるような愛国心や義憤を併せ持ち、眼光鋭く、それでいて物腰の柔らかい好々爺でした。我々日本人も是非覚えておくべき真の英雄のお話しを読んでやってください。

白善燁准将(第1師団長当時)
<朝鮮戦争以前>
白善燁大将は、1920年、日本統治下の平壌近郊で生まれ、満州国軍官学校(日本でいう予科士官学校)を首席で卒業。本来なら日本の陸軍士官学校に留学するところ、戦時中で留学がなくなり、満州国軍将校として対ゲリラ戦に従事。ご本人の意識としては、朝鮮民族の誇りを胸に、大日本帝国陸軍の将校教育を受けて育ち、大東亜共栄の夢を抱き、満州国軍所属の帝国軍人として当時の任務に邁進した。そして、終戦を満州国軍中尉として平壌にて迎える。
戦後、新生統一朝鮮国家の創生に燃えようと、知己のある民族派指導者の事務所に勤務。そこでは若き日の金日成とも接触している。ところが、朝鮮国家の建国どころか米ソの南北分断統治下となる。朝鮮半島の北半分はソ連の占領下で、金日成がみるみる力をつけ、日本帝国主義の先棒を担いだ!との理由で自分のよく知る軍人仲間が粛清される状況を見て、自分にもいつか起こる危険を肌で感じ、故郷を離れてソウルに渡る。南側にて、韓国軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊する。
朝鮮半島は、第2次世界大戦の終了の1945年から1949年の間に、北はソ連、南は米国が主導する分断国家として歩き始めた。創成期の韓国軍は旧帝国陸軍将校が基幹要員であり、入隊時の中尉からあれよあれよの間に連隊の創設を任され連隊長(中佐)に。1950年6月の朝鮮戦争勃発までの間、旧軍エリートだった白中佐はメキメキと頭角を現し、北朝鮮が突然の奇襲攻撃を開始した6月25日の時点では、事実上の国境となった北緯38度線の東西90キロを担任する第1師団長(大佐)を拝命していた。その日、白師団長は軍の高級課程に入校中で師団を離れていた。
<激戦朝鮮戦争>
南朝鮮=韓国にとっては全くの奇襲を受けた形となり、北朝鮮の突然の奇襲的総攻撃で事実上の南北の国境だった北緯38度線を突破され、一挙に侵攻を甘受してしまう。なんと、4日で首都ソウルが陥落。攻めてくる北朝鮮の追撃を恐れて、まだまだ川の南岸に逃げようと住民が橋に殺到しているのに、韓国軍はソウルを流れる漢江に架かる橋を住民ごと過早に爆破し、逃げられなかったソウル市民は北朝鮮軍に手を上げざるを得なくなり、後年「漢江の悲劇」と名がついた。
そのくらい、韓国軍は北朝鮮軍に押されに押された。当時、終戦後に駐留していた米軍が南朝鮮から撤退していた。中共軍とは戦い慣れた旧帝国陸軍育ちの将校がメインだった韓国軍は、旧日本軍の装備に加え米軍供与の装備で米軍の訓練を受けており、恐らく北朝鮮軍を舐めてかかっていたのだろう。北朝鮮軍は中共軍の装備や教育訓練を受けていない。T-34などの主力戦車を始めとしたソ連軍の装備で、ソ連軍の顧問団の下で教育訓練を受けていた。圧倒的な火力と装甲打撃力、そして前進する際に市民を先頭に立たせる非人道的進撃。押されに押された韓国軍は、いや韓国政府は、もはや朝鮮半島南端の釜山周辺に押し込められた。もはや風前の灯火。
<師団長、突撃す>
そんな血みどろの戦場で、自らはマラリヤに罹ってフラフラになりながらも、敗走する韓国軍の将兵達を叱咤激励する白師団長(准将)の姿があった。
場所は多富洞(タブドン)、釜山の北方約100キロの地方都市大邱(テグ)の更に北約10キロの山間の隘路。釜山に追い込まれた南朝鮮(韓国)の市民の生命・財産を守る最後の防波堤となる場所。韓国軍はここまで押されに押されてきたが、ここを突破されると一挙に釜山まで侵攻されてしまう。白師団長はこの多富洞防衛の意義・重要性が痛いほど分かっていた。しかし、現実問題として目の前にいる将兵達を見ると、師団とは名ばかりでもはや部隊編成もグダグダ状態。敗走に次ぐ敗走の将兵達は、我先に敵の弾の飛んで来ない後方に下がろうと浮き足立ち、地に足がついておらず、目も座っていない。南朝鮮の市民の生命・財産、政府の命運がどうなるかなんて知らない、どうでもいい、もはや自分の命が助かることしか頭にない。白師団長は、このままでは一挙に抜かれてしまい、南朝鮮=大韓民国という国が無くなってしまう危機感を肌で感じていた。一刻も早く立て直さねば、と焦っていた。
一方、米国が奇襲侵攻を受けた韓国軍に送ったスミス支隊(連隊戦闘団規模の勢力)という救援部隊が押し込まれた韓国軍とともにこの戦場に来ていた。米国は韓国軍の値踏みをしていたとも言える。米国は韓国を救うために米軍を本格的に投入し、若きアメリカ青年達の命をかけて守るに値する米国の死活的国益の架かる国なのか、その指標は「自分の国は自分で守る」という国家や、国民、軍の気概であった。その試金石としてスミス支隊という旅団にも満たない勢力を援軍を派遣したのだろう。スミス支隊は、劣勢の韓国軍と肩を並べて北朝鮮軍と戦いながら、同時に実際の韓国軍の戦いっぷりを見ながら韓国軍将兵の国を守る気概を査定していたと言える。白師団長には、それも主要な考慮事項だったに違いない。このままでは頼みの米国からも見離される、と。
白師団長は情熱溢れる猛烈な愛国心を持つ一方、冷静緻密な分析力と冷徹果断な状況判断力を併せ持つ優秀な指揮官だった。当面の危機の焦点である目前の山、つい先日まで我が陣地だったが今や敵の最前線。この敵に対し、逆襲により再び奪取することを決心。ここで必要なのは、相対戦闘力で劣る物理的な劣勢への対策。韓国軍の貧弱な火力戦闘では敵に近づくことすら難しい。そこでスミス支隊の野戦砲・迫撃砲等の火力支援戦闘能力に目をつけた。米軍に敵の頭上に突撃支援射撃をしてもらい、敵の頭を下げさせ、この間に1師団が敵のすぐ近傍まで走り、最後は匍匐前進で敵陣地目前までにじり寄る。そして、米軍の突撃支援射撃の最終弾弾着とともに突撃開始。敵は米軍の猛烈な野戦砲の砲撃を受けて、頭を上げられない。最終弾がいつかも知らない北朝鮮。他方、韓国軍は予め米軍と最終弾弾着の時間を調整している。北朝鮮軍が米軍の突撃支援射撃で身を硬くしているスキに、時刻規制をした各級指揮官の時計をゴーサインに「突撃にー、、、(最終弾弾着時間)進め‼」で全員が立ち上がって敵陣地に突撃する。あとは至近距離の銃撃戦と銃剣格闘の肉弾戦。まさに、国を守る気概の権化のような場面である。
白師団長は目前の敵のいる山への突撃を至短時間に偵察、計画の後、スミス支隊に行って火力支援の調整を済ませた。そして最後に残った最も厄介な仕事は、敗走し浮き足立った将兵達の目に今一度祖国防衛の炎の点火をし、突撃する気にさせる仕事だった。
この時、白師団長が浮き足立った将兵達を座らせて落ち着かせつつ、一旦火の消えた闘魂に火入れをした有名な訓示内容(抜粋)は以下のようなものだった。これを聞いた将兵達はもう一度銃を手に取り、敵のいる山を睨み、故郷や愛しき家族の安寧を祈って決死の突撃を敢行した。突撃は成功、朝鮮戦争序盤戦で初の勝利であり、共に戦ったスミス支隊の、否、米軍の信頼を勝ち得た。これを契機に韓国軍将兵の国を守る気概は復活し、じ後の長く辛いシーソーゲームに耐えて国を守り切った。そのキッカケとなったのが、以下の白師団長の魂の叫びである。
「諸君、連日連夜の激闘、誠にご苦労様、感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになる。我々がこの多富洞を失えば大邱が敵の手に落ち、大邱を失えば釜山の陥落はもう目に見えている。そうなればもう我が民族の行く所はない。今、祖国の存亡がこの多富洞の戦闘の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。死んでもここを守らなければならないのだ。見よ、我々を助けに地球の裏側からやってきた米軍が、我々を信じ、あんな谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが大韓の男にできようか。いまから師団長の俺が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。諸君は俺に続け。もし俺が退がるようなことがあれば、誰でもいいから俺を撃て。間もなく米軍の突撃支援射撃が始まる。支援射撃の最終弾とともに突撃する。よし、前進開始、俺に続け!」 (1950年8月21日、多富洞488高地を前にして)
この訓示のあと、師団長が先頭を切って前進開始。将兵はこれに続いた。師団長自ら先頭を切って突撃をするなんて前代未聞である。だが、白師団長の冷静な分析と韓国軍将兵のハートに火をつけた熱い訓示と陣頭指揮の突撃により、前述のように突撃は成功。韓国軍はこれを契機に戦況を逆転した。まさに救国の英雄。この時の白師団長の突撃無くして、現在の韓国はない。この世に存在しなかったかも知れない。
<私見ながら>
前述したように、あの時多富洞に白将軍がいなかったら、あの訓示がなかったなら、或いは、白師団長自ら先頭を切って突っ込む突撃がなかったなら、・・・・今の韓国の繁栄はなかったでしょう。敗走した将兵もろとも、釜山で北朝鮮に殲滅され、韓国という国家は亡くなっていたでしょう。
そんな救国の英雄に対し、文大統領は自らの偏狭な主義主張から、「親日」のレッテルを張って冷遇し、葬儀についても徹底して冷遇しました。唯一、韓国軍だけは政府の制止を振り切って陸軍墓地にて軍隊葬を敢行し、救国の英雄に報いました。まだ韓国軍には心ある軍人たちがいるのが嬉しい限りであり、救いですね。
防衛大学校の学生時代に、白善燁将軍にお会いしたことがあります。しかも光栄にも、韓国にて朝鮮戦争の戦史研究のため主要な戦場を白将軍ご自身にご説明頂く機会を得ました。この多富洞の突撃についても、現地にて白将軍自らご堪能な日本語でご説明いただきました。多富洞の突撃について、ある防大生が旧日本陸軍をやや蔑んだ表現をし、白将軍の指揮統率や現代の韓国軍に賛辞を述べた際のこと、白将軍はその言葉をさえぎってこう仰いました。「いやいや、貴方のお国(日本のこと)の帝国陸軍から教えていただいたことを忠実に守っただけですよ。旧帝国陸軍の教育訓練は素晴らしかった。現在の韓国軍は、米軍のドクトリンや装備を取り入れているがそれは形の話。不屈の精神や拳(こぶし)の風格は米軍なんかじゃない、旧帝国陸軍のマインドです。私の頭の中には、満州国軍官学校での教育訓練や中国国境での戦闘で先陣を切っていった貴方のお国の先輩方の立派な戦いぶりが今でも理想形としてある。常に与えられた任務の完遂を目指して、常に自分のことは後回しにして部下将兵の世話をし、叱咤激励し、目の前の目標を立てては自ら先頭に立って部隊を引っ張り、その目標を達成させる。常に笑顔で、父や兄のような存在だった。軍人として、ずっと追い続けても追いつけない憧れの姿だった先輩方が大勢いた。しかも皆、若くして祖国を離れた辺境の戦場に倒れていった無名の英雄でしたよ。私は今も忘れられない。」・・・私こそ、この言葉が忘れられません。その後の自衛隊幹部としての人生で、白将軍のこの言葉は常に私の心の中にありました。
白将軍、心から哀悼の誠を捧げさせていただきます。
(合掌)


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2020年7月10日(金)、朝鮮戦争における韓国の救国の英雄、白善燁(ペク・サンヤプ)大将が99歳のご長寿にて静かにご逝去されました。日本ではほとんどニュースになっていませんが、本当に韓国にとって救国の英雄でした。文在寅韓国大統領は、自らの偏狭な考えから白将軍を「親日の売国奴」と見なして生前から冷遇し、ご逝去に際して葬儀や埋葬も冷遇。悲しい話です。実は防大生の頃、ご本人にお会いしたことがあります。豪傑タイプではなく、冷静冷徹な判断力と燃えるような愛国心や義憤を併せ持ち、眼光鋭く、それでいて物腰の柔らかい好々爺でした。我々日本人も是非覚えておくべき真の英雄のお話しを読んでやってください。

白善燁准将(第1師団長当時)
<朝鮮戦争以前>
白善燁大将は、1920年、日本統治下の平壌近郊で生まれ、満州国軍官学校(日本でいう予科士官学校)を首席で卒業。本来なら日本の陸軍士官学校に留学するところ、戦時中で留学がなくなり、満州国軍将校として対ゲリラ戦に従事。ご本人の意識としては、朝鮮民族の誇りを胸に、大日本帝国陸軍の将校教育を受けて育ち、大東亜共栄の夢を抱き、満州国軍所属の帝国軍人として当時の任務に邁進した。そして、終戦を満州国軍中尉として平壌にて迎える。
戦後、新生統一朝鮮国家の創生に燃えようと、知己のある民族派指導者の事務所に勤務。そこでは若き日の金日成とも接触している。ところが、朝鮮国家の建国どころか米ソの南北分断統治下となる。朝鮮半島の北半分はソ連の占領下で、金日成がみるみる力をつけ、日本帝国主義の先棒を担いだ!との理由で自分のよく知る軍人仲間が粛清される状況を見て、自分にもいつか起こる危険を肌で感じ、故郷を離れてソウルに渡る。南側にて、韓国軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊する。
朝鮮半島は、第2次世界大戦の終了の1945年から1949年の間に、北はソ連、南は米国が主導する分断国家として歩き始めた。創成期の韓国軍は旧帝国陸軍将校が基幹要員であり、入隊時の中尉からあれよあれよの間に連隊の創設を任され連隊長(中佐)に。1950年6月の朝鮮戦争勃発までの間、旧軍エリートだった白中佐はメキメキと頭角を現し、北朝鮮が突然の奇襲攻撃を開始した6月25日の時点では、事実上の国境となった北緯38度線の東西90キロを担任する第1師団長(大佐)を拝命していた。その日、白師団長は軍の高級課程に入校中で師団を離れていた。
<激戦朝鮮戦争>
南朝鮮=韓国にとっては全くの奇襲を受けた形となり、北朝鮮の突然の奇襲的総攻撃で事実上の南北の国境だった北緯38度線を突破され、一挙に侵攻を甘受してしまう。なんと、4日で首都ソウルが陥落。攻めてくる北朝鮮の追撃を恐れて、まだまだ川の南岸に逃げようと住民が橋に殺到しているのに、韓国軍はソウルを流れる漢江に架かる橋を住民ごと過早に爆破し、逃げられなかったソウル市民は北朝鮮軍に手を上げざるを得なくなり、後年「漢江の悲劇」と名がついた。
そのくらい、韓国軍は北朝鮮軍に押されに押された。当時、終戦後に駐留していた米軍が南朝鮮から撤退していた。中共軍とは戦い慣れた旧帝国陸軍育ちの将校がメインだった韓国軍は、旧日本軍の装備に加え米軍供与の装備で米軍の訓練を受けており、恐らく北朝鮮軍を舐めてかかっていたのだろう。北朝鮮軍は中共軍の装備や教育訓練を受けていない。T-34などの主力戦車を始めとしたソ連軍の装備で、ソ連軍の顧問団の下で教育訓練を受けていた。圧倒的な火力と装甲打撃力、そして前進する際に市民を先頭に立たせる非人道的進撃。押されに押された韓国軍は、いや韓国政府は、もはや朝鮮半島南端の釜山周辺に押し込められた。もはや風前の灯火。
<師団長、突撃す>
そんな血みどろの戦場で、自らはマラリヤに罹ってフラフラになりながらも、敗走する韓国軍の将兵達を叱咤激励する白師団長(准将)の姿があった。
場所は多富洞(タブドン)、釜山の北方約100キロの地方都市大邱(テグ)の更に北約10キロの山間の隘路。釜山に追い込まれた南朝鮮(韓国)の市民の生命・財産を守る最後の防波堤となる場所。韓国軍はここまで押されに押されてきたが、ここを突破されると一挙に釜山まで侵攻されてしまう。白師団長はこの多富洞防衛の意義・重要性が痛いほど分かっていた。しかし、現実問題として目の前にいる将兵達を見ると、師団とは名ばかりでもはや部隊編成もグダグダ状態。敗走に次ぐ敗走の将兵達は、我先に敵の弾の飛んで来ない後方に下がろうと浮き足立ち、地に足がついておらず、目も座っていない。南朝鮮の市民の生命・財産、政府の命運がどうなるかなんて知らない、どうでもいい、もはや自分の命が助かることしか頭にない。白師団長は、このままでは一挙に抜かれてしまい、南朝鮮=大韓民国という国が無くなってしまう危機感を肌で感じていた。一刻も早く立て直さねば、と焦っていた。
一方、米国が奇襲侵攻を受けた韓国軍に送ったスミス支隊(連隊戦闘団規模の勢力)という救援部隊が押し込まれた韓国軍とともにこの戦場に来ていた。米国は韓国軍の値踏みをしていたとも言える。米国は韓国を救うために米軍を本格的に投入し、若きアメリカ青年達の命をかけて守るに値する米国の死活的国益の架かる国なのか、その指標は「自分の国は自分で守る」という国家や、国民、軍の気概であった。その試金石としてスミス支隊という旅団にも満たない勢力を援軍を派遣したのだろう。スミス支隊は、劣勢の韓国軍と肩を並べて北朝鮮軍と戦いながら、同時に実際の韓国軍の戦いっぷりを見ながら韓国軍将兵の国を守る気概を査定していたと言える。白師団長には、それも主要な考慮事項だったに違いない。このままでは頼みの米国からも見離される、と。
白師団長は情熱溢れる猛烈な愛国心を持つ一方、冷静緻密な分析力と冷徹果断な状況判断力を併せ持つ優秀な指揮官だった。当面の危機の焦点である目前の山、つい先日まで我が陣地だったが今や敵の最前線。この敵に対し、逆襲により再び奪取することを決心。ここで必要なのは、相対戦闘力で劣る物理的な劣勢への対策。韓国軍の貧弱な火力戦闘では敵に近づくことすら難しい。そこでスミス支隊の野戦砲・迫撃砲等の火力支援戦闘能力に目をつけた。米軍に敵の頭上に突撃支援射撃をしてもらい、敵の頭を下げさせ、この間に1師団が敵のすぐ近傍まで走り、最後は匍匐前進で敵陣地目前までにじり寄る。そして、米軍の突撃支援射撃の最終弾弾着とともに突撃開始。敵は米軍の猛烈な野戦砲の砲撃を受けて、頭を上げられない。最終弾がいつかも知らない北朝鮮。他方、韓国軍は予め米軍と最終弾弾着の時間を調整している。北朝鮮軍が米軍の突撃支援射撃で身を硬くしているスキに、時刻規制をした各級指揮官の時計をゴーサインに「突撃にー、、、(最終弾弾着時間)進め‼」で全員が立ち上がって敵陣地に突撃する。あとは至近距離の銃撃戦と銃剣格闘の肉弾戦。まさに、国を守る気概の権化のような場面である。
白師団長は目前の敵のいる山への突撃を至短時間に偵察、計画の後、スミス支隊に行って火力支援の調整を済ませた。そして最後に残った最も厄介な仕事は、敗走し浮き足立った将兵達の目に今一度祖国防衛の炎の点火をし、突撃する気にさせる仕事だった。
この時、白師団長が浮き足立った将兵達を座らせて落ち着かせつつ、一旦火の消えた闘魂に火入れをした有名な訓示内容(抜粋)は以下のようなものだった。これを聞いた将兵達はもう一度銃を手に取り、敵のいる山を睨み、故郷や愛しき家族の安寧を祈って決死の突撃を敢行した。突撃は成功、朝鮮戦争序盤戦で初の勝利であり、共に戦ったスミス支隊の、否、米軍の信頼を勝ち得た。これを契機に韓国軍将兵の国を守る気概は復活し、じ後の長く辛いシーソーゲームに耐えて国を守り切った。そのキッカケとなったのが、以下の白師団長の魂の叫びである。
「諸君、連日連夜の激闘、誠にご苦労様、感謝の言葉もない。よく今まで頑張ってくれた。だがここで我々が負ければ、我々は祖国を失うことになる。我々がこの多富洞を失えば大邱が敵の手に落ち、大邱を失えば釜山の陥落はもう目に見えている。そうなればもう我が民族の行く所はない。今、祖国の存亡がこの多富洞の戦闘の成否に掛かっているのだ。我々にはもう退がる所はないのだ。死んでもここを守らなければならないのだ。見よ、我々を助けに地球の裏側からやってきた米軍が、我々を信じ、あんな谷底で戦っているではないか。信頼してくれている友軍を裏切ることが大韓の男にできようか。いまから師団長の俺が先頭に立って突撃し陣地を奪回する。諸君は俺に続け。もし俺が退がるようなことがあれば、誰でもいいから俺を撃て。間もなく米軍の突撃支援射撃が始まる。支援射撃の最終弾とともに突撃する。よし、前進開始、俺に続け!」 (1950年8月21日、多富洞488高地を前にして)
この訓示のあと、師団長が先頭を切って前進開始。将兵はこれに続いた。師団長自ら先頭を切って突撃をするなんて前代未聞である。だが、白師団長の冷静な分析と韓国軍将兵のハートに火をつけた熱い訓示と陣頭指揮の突撃により、前述のように突撃は成功。韓国軍はこれを契機に戦況を逆転した。まさに救国の英雄。この時の白師団長の突撃無くして、現在の韓国はない。この世に存在しなかったかも知れない。
<私見ながら>
前述したように、あの時多富洞に白将軍がいなかったら、あの訓示がなかったなら、或いは、白師団長自ら先頭を切って突っ込む突撃がなかったなら、・・・・今の韓国の繁栄はなかったでしょう。敗走した将兵もろとも、釜山で北朝鮮に殲滅され、韓国という国家は亡くなっていたでしょう。
そんな救国の英雄に対し、文大統領は自らの偏狭な主義主張から、「親日」のレッテルを張って冷遇し、葬儀についても徹底して冷遇しました。唯一、韓国軍だけは政府の制止を振り切って陸軍墓地にて軍隊葬を敢行し、救国の英雄に報いました。まだ韓国軍には心ある軍人たちがいるのが嬉しい限りであり、救いですね。
防衛大学校の学生時代に、白善燁将軍にお会いしたことがあります。しかも光栄にも、韓国にて朝鮮戦争の戦史研究のため主要な戦場を白将軍ご自身にご説明頂く機会を得ました。この多富洞の突撃についても、現地にて白将軍自らご堪能な日本語でご説明いただきました。多富洞の突撃について、ある防大生が旧日本陸軍をやや蔑んだ表現をし、白将軍の指揮統率や現代の韓国軍に賛辞を述べた際のこと、白将軍はその言葉をさえぎってこう仰いました。「いやいや、貴方のお国(日本のこと)の帝国陸軍から教えていただいたことを忠実に守っただけですよ。旧帝国陸軍の教育訓練は素晴らしかった。現在の韓国軍は、米軍のドクトリンや装備を取り入れているがそれは形の話。不屈の精神や拳(こぶし)の風格は米軍なんかじゃない、旧帝国陸軍のマインドです。私の頭の中には、満州国軍官学校での教育訓練や中国国境での戦闘で先陣を切っていった貴方のお国の先輩方の立派な戦いぶりが今でも理想形としてある。常に与えられた任務の完遂を目指して、常に自分のことは後回しにして部下将兵の世話をし、叱咤激励し、目の前の目標を立てては自ら先頭に立って部隊を引っ張り、その目標を達成させる。常に笑顔で、父や兄のような存在だった。軍人として、ずっと追い続けても追いつけない憧れの姿だった先輩方が大勢いた。しかも皆、若くして祖国を離れた辺境の戦場に倒れていった無名の英雄でしたよ。私は今も忘れられない。」・・・私こそ、この言葉が忘れられません。その後の自衛隊幹部としての人生で、白将軍のこの言葉は常に私の心の中にありました。
白将軍、心から哀悼の誠を捧げさせていただきます。
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