マクナマラの教訓⑱: ジョンソン大統領をどう見るか
<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑱補足説明: ジョンソン大統領をどう見るか>
「マクナマラ氏の教訓」シリーズの最後の補足=スピンオフとして、同氏の教訓のエピソードの中に出てくる2人の異彩を放つキャラクターについて補足させていただいております。前回がカーティス・ラメイ将軍、そして今回がリンドン・B・ジョンソン大統領です。2名ともそれぞれマクナマラ氏の教訓と関係が深く、かつそれぞれが危機管理を考える際に学ぶべき要素を有する強烈な個性を持っています。
今回はリンドン・ジョンソン大統領について補足いたしします。ちなみに、マクナマラ氏は、ケネディ大統領に三顧の礼で迎えられて国防長官に着任した際、ジョンソン氏とは当初は副大統領として共に大統領を支え、じ後ケネディ大統領の暗殺に伴い急遽大統領に就任したジョンソン大統領に対しても献身的に(辞任するまで)支えました(過去ログの「マクナマラの教訓⑦、⑨、⑩」)。副大統領時代はマクナマラ国防長官とのからみはあまりありませんでした。これは、ジョンソン氏が副大統領という刺身のツマ的な地位・役割もあって、良く言えば「黒子に徹し」、悪く言えば「蚊帳の外」に置かれたからです。また、もう一つの理由としては、ジョンソン氏自身が元々内政に精通し、議員時代からの叩き上げの議会掌握能力を有することもあって、国防省正面の安全保障・軍事に関わる領域には全く口を出さなかった(よく分かっていなかった)ことも要因と考えられます。しかし、突然大統領としての絶大なまでの幅と深さを有する権力を持つようになり、否が応でも不得手な安全保障・軍事に関わらざるを得なくなりました。この図式がその栄光と挫折の大統領時代に終始影をかざすことになります。
過去ログのマクナマラ氏の教訓⑦⑨⑩⑭に出てくるジョンソン大統領は、まぁ喰えない大統領です。⑦で言及したように、「ベトナム問題」を「ベトナム戦争」にした状況判断はジョンソン大統領のイニシアティブです。特に、ケネディ大統領当時の方向性では(そもそも本格介入しておらず、まだ「軍事顧問団」名目の派遣)「逐次撤退」のベクトルだったものを、ジョンソン大統領になってから「逐次増援」とし、トンキン湾事件を契機に本格介入に舵を取り、北爆の開始、地上戦闘部隊の大規模増派の途を歩み始めました。⑨や⑩では、北ベトナム軍や南ベトナムのベトコンとの泥沼の戦いに足を取られ、献身的に国防長官として支えていたマクナマラ氏も遂には数次にわたる方向転換の意見具申も空しく、ジョンソン大統領は不退転の構えを一向に変えませんでした。
***過去ログ⑦より
映画では、1964年2月25日の肉声テープで、電話にてジョンソン大統領からベトナム戦争への関わり方について「修正したい」と言われ、当惑するも押し切られる同氏(マクナマラ氏)の声が聞こえます。この時、大統領がこういう文言をスピーチに入れてくれ、と注文したのが当時の冷戦ならではのドミノ理論です。・・・(中略)・・・
驚くのはこのあとの大統領の発言です。「私は、これまで君が撤退について何か発表をするたびに馬鹿げたことだと思ってきたのだ。撤退について言及するなんて心理的に悪影響がある。君と前大統領の考えは私とは全く違うものであったが、当時私は黙って聞いていた。そこで質問だ、戦況が劣勢になって撤退を口にするなんてマクナマラの奴は一体何を考えているんだ?ってね。」
***過去ログ⑭より
(1965年3月6日の肉声テープより)
ジ: 「海兵隊が派遣される」という報は、国民への心理的インパクトとしては悪いものになるだろう。母親たちは誰もが言うだろう。「おやまぁ、やっぱりこうなったわ!」。B-57爆撃機で我々がやってきた北爆は、まだ日曜学校に行くようなものだ。海兵隊の派遣に比べりゃぁな。私の結論は「イエス」だが、判断としては未だ「ノー」なのだ。
マ: 分かりました。我々国防省が対応しますから、大統領。
ジ: 派遣命令はいつ発出するんだ?
マ: 今晩遅く出す予定です。そうすれば日曜版の新聞で何社かは見落として記事にならないでしょう。発表にしても影響が最小限になるようにうまくやります。
***過去ログ⑩より
同氏(マクナマラ氏)は、2つの写真を紹介します。ジョンソン大統領とマクナマラ国防長官が大統領執務室らしき部屋で議論している風景ですが、
一つは、マクナマラ氏が何かの懸案について意見具申していますが、ジョンソン大統領は怪訝な顔で当惑しているの図。 ・・・(中略)・・・

もう一枚の写真は、当惑するジョンソン大統領を背景に、説明しても説明しても一向に理解してくれないジョンソン大統領に対して、呆れ顔で頭を抱えるマクナマラ氏の図。 ・・・(中略)・・・

ベトナム政策について、マクナマラ氏はジョンソン大統領に(撤退を)意見具申しても説得できず、ジョンソン大統領は既定路線(このまま継続)で行くのだということをマクナマラ氏を納得させることはできませんでした。マクナマラ氏は言います。「ケネディ大統領にもジョンソン大統領にも同様に忠誠心を払い尊敬して仕えた。しかし、最終的にはジョンソン大統領と自分は、お互い対極にいることに気づいたのだ。」
様々な意見具申がジョンソン大統領に容れられなくなる状況下で、ベトナムでは次々に新しい作戦名を冠して米軍の新たな作戦が繰り出されます。しかし戦況は悪化の一途。マクナマラ氏も遂に腹を決めます。1967年11月に、「現在の行動方針は完全に誤っており、我々は方向を転換、すなわち作戦を縮小し、死傷者を削減しなければならないのだ。」というメモにしたため、他の閣僚には論争を巻き起こすのは必定なので一切見せず、直接大統領に手渡します。・・・(中略)・・・ しかし、結局、大統領からは何の回答もなし。
***
最初の⑦のエピソードは、ケネディ大統領当時にベトナム政策は米軍自体の本格介入は避け逐次撤退の方向であったところを、ジョンソン大統領がベトナムへの介入に舵を切った部分です。二つ目の⑭のエピソードは、それまでの「軍事顧問団」名目の派遣から初めての地上戦闘部隊派遣に踏み切る場面ですが、派遣の結論は既に自分で出したものの、自らの迷いをマクナマラ氏にぶつけ、増派の命令時期や公表の仕方やマスコミ対応はマクナマラ氏に丸投げしています。三つ目の⑩のエピソードは、ベトナム戦争が泥沼化する中、反戦デモも国民レベルとなってきた頃、マクナマラ氏は軌道修正の意見具申をしますが大統領には容れられず、最終的には撤退の建白書を書いて大統領には直訴するも答えてもくれず、これがマクナマラ氏の国防長官辞任の契機となりました。
ジョンソン大統領は、1967年11月末のマクナマラ国防長官の辞任発表の後、クラーク・クリフォード新国防長官を向かえますが、1968年1月末に「テト攻勢」と呼ばれるベトコンによる大規模な攻撃を受け、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館まで一時占拠される程の状況となりました。現地にいた各国マスコミの特派員達も現地の混沌とした状況を本国に伝えました。特に米国本土では、ベトナム戦争の泥沼化はもはや誰の目にも明らか、かつ米軍が勝利を得ることは無さそうだ、という認識に変わりました。米国テレビニュース界で最も尊敬され「アメリカで最も信用される人」、「アメリカの良心」とまで国民的評価の高かったCBSテレビのニュースアンカー、クローンカイト氏が現地取材をした上で以下のようなコメントで締めくくったことが有名です。
“But it is increasingly clear to this reporter that the only way out then will be to negotiate, not as victors, but as an honorable people who lived up to their pledge to defend democracy, and did the best they could.”
「この状況から抜け出す唯一の道は、(米軍は、)軍事的勝利者としてではなく、『民主主義を守り、できる限りの最善を尽くします』との宣誓に従って行動する尊敬すべき人々として、交渉すること以外にないと、このリポーターの目には明らかであります。」
クローンカイト氏は、それまでニュースを忠実に国民に伝えることを信条とし、自分の考えなどをコメントしたことのない人であっただけに、現地取材の結論としていつにない苦悩の表情で政府や米軍の政策について批判的なコメントをしたわけです。この影響力は大きく、マスコミの論調も国民の一般的受け止め方・世論もこれを機に批判的に変わりました。
そして、これまた有名な話ですが、これを受けてジョンソン大統領が、「If I've lost Cronkite, I’ve lost middle America. もし私がクローンカイトを失ったとすれば、私はアメリカの中産階級を失ったことになる。」と副官に漏らしたといいます。丁度この年に大統領選挙があることもあり、マスコミの論調も舌鋒激しく、2期目も再選を目指すジョンソン現大統領のベトナム戦争政策は槍玉に上がりました。それでも現路線維持を変えなかったジョンソン大統領でしたが、遂に、同年3月31日夜、大統領から国民へのメッセージ放送の中で、当初の予定にはなかった次期大統領選挙には出馬しない旨の電撃発表をしました。直接の切っ掛けは、戦況はかばかしくない現地の状況に鑑み、現地のウェストモーランド大将から20万人の更なる増派要請をクリフォード新国防長官が拒み、大統領に対し遂に逐次縮小を訴えたことでした。ジョンソン大統領としても、「もはやこれまで」と観念したわけです。マクナマラ氏の辞任が、発表が1967年11月29日、正式離任が1968年2月29日ですから、僅か1ヶ月でした。

次回は、この続きとして内政の観点からジョンソン氏を考察し、内政で高く評価される一方安全保障・外交で酷評された同氏について、ウィルダフスキー(予算編成等で高名な政治学者)氏の「The Two Presidencies」という論文をフィルターに考察してみたいと思います。
(つづく)


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「マクナマラ氏の教訓」シリーズの最後の補足=スピンオフとして、同氏の教訓のエピソードの中に出てくる2人の異彩を放つキャラクターについて補足させていただいております。前回がカーティス・ラメイ将軍、そして今回がリンドン・B・ジョンソン大統領です。2名ともそれぞれマクナマラ氏の教訓と関係が深く、かつそれぞれが危機管理を考える際に学ぶべき要素を有する強烈な個性を持っています。
今回はリンドン・ジョンソン大統領について補足いたしします。ちなみに、マクナマラ氏は、ケネディ大統領に三顧の礼で迎えられて国防長官に着任した際、ジョンソン氏とは当初は副大統領として共に大統領を支え、じ後ケネディ大統領の暗殺に伴い急遽大統領に就任したジョンソン大統領に対しても献身的に(辞任するまで)支えました(過去ログの「マクナマラの教訓⑦、⑨、⑩」)。副大統領時代はマクナマラ国防長官とのからみはあまりありませんでした。これは、ジョンソン氏が副大統領という刺身のツマ的な地位・役割もあって、良く言えば「黒子に徹し」、悪く言えば「蚊帳の外」に置かれたからです。また、もう一つの理由としては、ジョンソン氏自身が元々内政に精通し、議員時代からの叩き上げの議会掌握能力を有することもあって、国防省正面の安全保障・軍事に関わる領域には全く口を出さなかった(よく分かっていなかった)ことも要因と考えられます。しかし、突然大統領としての絶大なまでの幅と深さを有する権力を持つようになり、否が応でも不得手な安全保障・軍事に関わらざるを得なくなりました。この図式がその栄光と挫折の大統領時代に終始影をかざすことになります。
過去ログのマクナマラ氏の教訓⑦⑨⑩⑭に出てくるジョンソン大統領は、まぁ喰えない大統領です。⑦で言及したように、「ベトナム問題」を「ベトナム戦争」にした状況判断はジョンソン大統領のイニシアティブです。特に、ケネディ大統領当時の方向性では(そもそも本格介入しておらず、まだ「軍事顧問団」名目の派遣)「逐次撤退」のベクトルだったものを、ジョンソン大統領になってから「逐次増援」とし、トンキン湾事件を契機に本格介入に舵を取り、北爆の開始、地上戦闘部隊の大規模増派の途を歩み始めました。⑨や⑩では、北ベトナム軍や南ベトナムのベトコンとの泥沼の戦いに足を取られ、献身的に国防長官として支えていたマクナマラ氏も遂には数次にわたる方向転換の意見具申も空しく、ジョンソン大統領は不退転の構えを一向に変えませんでした。
***過去ログ⑦より
映画では、1964年2月25日の肉声テープで、電話にてジョンソン大統領からベトナム戦争への関わり方について「修正したい」と言われ、当惑するも押し切られる同氏(マクナマラ氏)の声が聞こえます。この時、大統領がこういう文言をスピーチに入れてくれ、と注文したのが当時の冷戦ならではのドミノ理論です。・・・(中略)・・・
驚くのはこのあとの大統領の発言です。「私は、これまで君が撤退について何か発表をするたびに馬鹿げたことだと思ってきたのだ。撤退について言及するなんて心理的に悪影響がある。君と前大統領の考えは私とは全く違うものであったが、当時私は黙って聞いていた。そこで質問だ、戦況が劣勢になって撤退を口にするなんてマクナマラの奴は一体何を考えているんだ?ってね。」
***過去ログ⑭より
(1965年3月6日の肉声テープより)
ジ: 「海兵隊が派遣される」という報は、国民への心理的インパクトとしては悪いものになるだろう。母親たちは誰もが言うだろう。「おやまぁ、やっぱりこうなったわ!」。B-57爆撃機で我々がやってきた北爆は、まだ日曜学校に行くようなものだ。海兵隊の派遣に比べりゃぁな。私の結論は「イエス」だが、判断としては未だ「ノー」なのだ。
マ: 分かりました。我々国防省が対応しますから、大統領。
ジ: 派遣命令はいつ発出するんだ?
マ: 今晩遅く出す予定です。そうすれば日曜版の新聞で何社かは見落として記事にならないでしょう。発表にしても影響が最小限になるようにうまくやります。
***過去ログ⑩より
同氏(マクナマラ氏)は、2つの写真を紹介します。ジョンソン大統領とマクナマラ国防長官が大統領執務室らしき部屋で議論している風景ですが、
一つは、マクナマラ氏が何かの懸案について意見具申していますが、ジョンソン大統領は怪訝な顔で当惑しているの図。 ・・・(中略)・・・

もう一枚の写真は、当惑するジョンソン大統領を背景に、説明しても説明しても一向に理解してくれないジョンソン大統領に対して、呆れ顔で頭を抱えるマクナマラ氏の図。 ・・・(中略)・・・

ベトナム政策について、マクナマラ氏はジョンソン大統領に(撤退を)意見具申しても説得できず、ジョンソン大統領は既定路線(このまま継続)で行くのだということをマクナマラ氏を納得させることはできませんでした。マクナマラ氏は言います。「ケネディ大統領にもジョンソン大統領にも同様に忠誠心を払い尊敬して仕えた。しかし、最終的にはジョンソン大統領と自分は、お互い対極にいることに気づいたのだ。」
様々な意見具申がジョンソン大統領に容れられなくなる状況下で、ベトナムでは次々に新しい作戦名を冠して米軍の新たな作戦が繰り出されます。しかし戦況は悪化の一途。マクナマラ氏も遂に腹を決めます。1967年11月に、「現在の行動方針は完全に誤っており、我々は方向を転換、すなわち作戦を縮小し、死傷者を削減しなければならないのだ。」というメモにしたため、他の閣僚には論争を巻き起こすのは必定なので一切見せず、直接大統領に手渡します。・・・(中略)・・・ しかし、結局、大統領からは何の回答もなし。
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最初の⑦のエピソードは、ケネディ大統領当時にベトナム政策は米軍自体の本格介入は避け逐次撤退の方向であったところを、ジョンソン大統領がベトナムへの介入に舵を切った部分です。二つ目の⑭のエピソードは、それまでの「軍事顧問団」名目の派遣から初めての地上戦闘部隊派遣に踏み切る場面ですが、派遣の結論は既に自分で出したものの、自らの迷いをマクナマラ氏にぶつけ、増派の命令時期や公表の仕方やマスコミ対応はマクナマラ氏に丸投げしています。三つ目の⑩のエピソードは、ベトナム戦争が泥沼化する中、反戦デモも国民レベルとなってきた頃、マクナマラ氏は軌道修正の意見具申をしますが大統領には容れられず、最終的には撤退の建白書を書いて大統領には直訴するも答えてもくれず、これがマクナマラ氏の国防長官辞任の契機となりました。
ジョンソン大統領は、1967年11月末のマクナマラ国防長官の辞任発表の後、クラーク・クリフォード新国防長官を向かえますが、1968年1月末に「テト攻勢」と呼ばれるベトコンによる大規模な攻撃を受け、南ベトナムの首都サイゴンのアメリカ大使館まで一時占拠される程の状況となりました。現地にいた各国マスコミの特派員達も現地の混沌とした状況を本国に伝えました。特に米国本土では、ベトナム戦争の泥沼化はもはや誰の目にも明らか、かつ米軍が勝利を得ることは無さそうだ、という認識に変わりました。米国テレビニュース界で最も尊敬され「アメリカで最も信用される人」、「アメリカの良心」とまで国民的評価の高かったCBSテレビのニュースアンカー、クローンカイト氏が現地取材をした上で以下のようなコメントで締めくくったことが有名です。
“But it is increasingly clear to this reporter that the only way out then will be to negotiate, not as victors, but as an honorable people who lived up to their pledge to defend democracy, and did the best they could.”
「この状況から抜け出す唯一の道は、(米軍は、)軍事的勝利者としてではなく、『民主主義を守り、できる限りの最善を尽くします』との宣誓に従って行動する尊敬すべき人々として、交渉すること以外にないと、このリポーターの目には明らかであります。」
クローンカイト氏は、それまでニュースを忠実に国民に伝えることを信条とし、自分の考えなどをコメントしたことのない人であっただけに、現地取材の結論としていつにない苦悩の表情で政府や米軍の政策について批判的なコメントをしたわけです。この影響力は大きく、マスコミの論調も国民の一般的受け止め方・世論もこれを機に批判的に変わりました。
そして、これまた有名な話ですが、これを受けてジョンソン大統領が、「If I've lost Cronkite, I’ve lost middle America. もし私がクローンカイトを失ったとすれば、私はアメリカの中産階級を失ったことになる。」と副官に漏らしたといいます。丁度この年に大統領選挙があることもあり、マスコミの論調も舌鋒激しく、2期目も再選を目指すジョンソン現大統領のベトナム戦争政策は槍玉に上がりました。それでも現路線維持を変えなかったジョンソン大統領でしたが、遂に、同年3月31日夜、大統領から国民へのメッセージ放送の中で、当初の予定にはなかった次期大統領選挙には出馬しない旨の電撃発表をしました。直接の切っ掛けは、戦況はかばかしくない現地の状況に鑑み、現地のウェストモーランド大将から20万人の更なる増派要請をクリフォード新国防長官が拒み、大統領に対し遂に逐次縮小を訴えたことでした。ジョンソン大統領としても、「もはやこれまで」と観念したわけです。マクナマラ氏の辞任が、発表が1967年11月29日、正式離任が1968年2月29日ですから、僅か1ヶ月でした。

次回は、この続きとして内政の観点からジョンソン氏を考察し、内政で高く評価される一方安全保障・外交で酷評された同氏について、ウィルダフスキー(予算編成等で高名な政治学者)氏の「The Two Presidencies」という論文をフィルターに考察してみたいと思います。
(つづく)


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