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2018/08/29

マクナマラの教訓: ⑤日本本土空襲 proportionality(釣り合っているか)をめぐって

<映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」に学ぶ ⑤日本本土空襲: proportionality(釣り合っているか)をめぐって>

 前回に引き続き第2次世界大戦中の日本本土空襲について、マクナマラの5番目の教訓 「『釣り合っているか』は戦争指導上の一つのガイドラインとすべきである。 Proportionality should be a guideline in war. 」を反芻していきたいと思います。
焼け野原となった東京

 その前に、「戦略爆撃」という概念について補足させてください。
 日本本土空襲は戦略爆撃です。他方、戦場で敵の第一線で攻撃や防御をしている戦闘部隊、或いは後方の兵站部隊(後方支援部隊)を爆撃(航空攻撃)するのは戦術的な爆撃(航空攻撃)です。元々は後者が一般的でしたが、第一次大戦の頃、イタリアのジュリオ・ドゥーエが提唱したのが「戦略爆撃」(著書「制空」)で、戦場ではなく敵国本土の戦争遂行の策源(軍需工場、燃料根拠地、穀倉地帯など)や、更に敵国本土の首都や主要都市の一般市民そのものを爆撃することであり、「無差別爆撃」という表現で使われることもあります。特に、後者は非人道的この上ないものですが、第1次大戦の頃の国家間の戦争においては、国家と国民が結束し、国家の諸力を総動員する所謂「総力戦」の時代だったので、第1次大戦のように長大な前線で何十万もの兵を消耗戦で戦わせるより、むしろ敵国の主要都市の人口そのものを叩いて戦争遂行の気力を失わせるほうが得策と考えたわけです。この考え方の延長に、第2次大戦中の戦略爆撃があり、戦時中の日本も重慶に対し、ドイツはロンドンを、更に報復として英国をはじめとする連合軍がドイツに対して実施しました。

 前回の教訓4の日本本土空襲、特に東京大空襲の部分の話をしたマクナマラ氏に対し、インタビューアーのモリス監督が incendiary bombs(焼夷弾)を使用したのは非人道的ではないかという観点の質問をしたことに対し、同氏は「問題の本質は焼夷弾の使用ではなく、戦勝の追求のためとはいえ一晩に10万もの一般市民を殺してもいいのか?ということだ。」と答えます。同氏は、ラメイ大佐の回答は『Yes』であり、戦略爆撃の代わりに日本本土戦において何万もの米兵が損害を被ることを考えれば許容範囲なのだというのがラメイ大佐の論理だ、と話します。しかし、ここで同氏は疑問を呈します。

  “Why was it necessary to drop the nuclear bomb
  if LeMay was burning up Japan?
  He went on from Tokyo to firebomb other cities.”
.  「この後、ラメイ大佐は日本の各都市を空襲で焼き尽くし続けたのだが、
  では、そうした上でなぜ原子爆弾を落とす必要があったというのか?」

 この後、恐らくは当時同氏自身が見積・分析をして計画に寄与したであろう日本の各主要都市への爆撃で破壊した数値的データを挙げていき、画面も次々と焦土と化した日本の都市が破壊されたパーセンテージとともに映し出されます。
・・・クリーブランドと同等の都市 横浜の58%を、ニューヨークと同等のサイズの東京の51%を、チャタヌーガと同等の富山の99%を、ロスアンゼルスと同等の名古屋の40%を、・・・
その列挙の後に、同氏はこう言います。

  “This was all done before the dropping nuclear bomb.”
  「これは全て原爆投下以前に実施した空襲なのだ。」

 この言葉の後に5番目の教訓を結びます。

  “Proportionality should be a guideline in war.”
  「『釣り合っているか』は戦争指導上の一つのガイドラインとすべきである。」

 私は、ここの部分の解釈を見誤っていました。
 当初、マクナマラ氏一流の統計学的手法で見積り計画した日本本土空襲は、非人道的ではあるものの目的に対する手段としては「釣り合っているか」という尺度は有効なのだ、という教訓だと理解していました。
 しかし、どうやら違いますね。マクナマラ氏は暗に「これでは proportional ではない、行き過ぎではなかったか?」と主張しているようです。ブログに書くとなるとDVDの見方も時間をかけて精密になりますので、反復して視聴していて違いに気づきました。いやぁー、浅学非才ですみません。後でこのブログの初回の①教訓の概略の説明のところを修正しておきます。
 マクナマラ氏は、計67都市に及ぶ日本の都市の50~90%もの一般市民を空襲で殺傷し、その上で広島・長崎に原爆を投下したことを、戦勝追求のためとはいえ「proportional=釣り合う」という線を越えているのではないか、これではいけないのだ、proportional(釣り合っているか)というのをガイドラインにすべきではないのか、と主張していると私は理解しました。というのも、同氏はラメイ大佐の指揮下で、まさに彼の作戦に寄与するために「日本本土のどこを目標とし、どの程度の爆撃成果を得るべきである・・・」と見積・分析・計画で寄与していたわけですから、同氏には同氏なりのproportionalityを尺度とし綿密周到に計算していたのではないでしょうか。にも拘らず、原爆投下というダメ押しが政治判断で下りてきたわけです。ラメイ大佐は何の迷いもなく命令を実行に移したのでしょうが、恐らくマクナマラ氏には精神的呵責と無力感に苛まれたのではないでしょうか。
 同氏は、原爆投下を命じた当時のトルーマン大統領を責めているわけではなく、当時も今も戦争には一定のルールがないのだ、と自身でラメイ大佐やトルーマン大統領の弁明をします。しかし、ルールがないからこそ、「proportionalityを尺度とすべきではないか」と同氏は主張しているのではないでしょうか。というのも、統計学的分析手法で課題に対する解決法を数値的データに基づいて客観論理的に導き出すのがマクナマラ氏の真骨頂であり、ベトナム戦争中でさえそうしてましたから。

 この章の結びの部分の同氏のコメントのシーンが非常に印象的です。
 モリス監督は、このコメントの際にマクナマラ氏がコメントしている場面ではなく、敢えて同氏の苦渋に満ちた無言の表情をアップにしてコメントだけ流します。

  “LeMay said,
  ‘If we lost the war, we’d all have been prosecuted as war criminals.’
  And I think he’s right.
  He, and I’d say I, we were behaving as war criminals.
  LeMay recognized that what he has doing
  would be thought immoral if his side had lost.
  But what makes it immoral if you lose
  and not immoral if you win?”
  「ラメイ大佐はこう言った。
  『もし戦争に負けたら、我々は戦争犯罪に問われるだろうな。』
  その通りだ。ラメイ大佐は、そして『私も』と言おう、我々は戦争犯罪を犯していたのだ。
  ラメイ大佐は、自分がしていることは、もし我が方が負けたら不道徳・非倫理的であろうことを認識していた。
  しかし、負ければ不道徳・非倫理的であるが勝てばそうでないと言えるのだろうか?」


 映画評やマクナマラ氏評では、マクナマラは自分で関わったくせに自己の責任を認めずに言い訳をしている、と解釈される方もいらっしゃることは承知しております。しかし、当時、指揮官に仕える一幕僚、一スタッフ、分析官に過ぎなかったとはいえ、日本本土空襲や原爆投下に携わった部隊の一員であったマクナマラ氏の正直な自責の念のように感じるのは私だけでしょうか。
  (了)

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